世界中の人々が注目した石見銀山

前回の記事で、『戦国期の石見銀山は、南米のポトシ銀山と双璧を成す「世界有数の銀山」であり、スペイン・ポルトガルといった当時有数の海洋国家に大いに注目されていた鉱山』であったことを紹介させて頂きましたが、今記事ではその世界最大級の鉱山から産まれる銀を欲した人々について少し紹介させて頂きたいと思います。

 

 当時、世界各地で流通している銀量の実に「3分の1が石州銀」であった言われ、石見銀山が当時の世界経済の一翼を担っていたことがわかります。これほどの銀を産出する鉱山の存在に『全員』が執着していました。全員とは誰のことか?それは『中国地方の戦国大名、そして中国大陸および先述の西洋諸国の人々、即ち貿易商人たち』であります。人間が莫大な利益を求めて競争する、という原理は古今東西、絶対的不変なものであるのは誰もが知るところでありますが、大名たちは軍資金の財源として石見銀山を欲し、海外の貿易商人たちは、東アジア貿易(南蛮貿易)には欠かせない元手として大量の石見銀を必要としたのであります。

 

 日本の戦国期、即ち15世紀後期〜16世紀の世界は『大航海時代の黄金期』であり、ポルトガル王国やオランダ(ネーデルランド)の西欧諸国の殆どを傘下に治め、メキシコ・南米大陸の南西部(ポトシ銀山も含む)など広大な植民地も有して「太陽の沈まぬ帝国」と謳われた最強王国・スペイン・ポルトガル王国(統治者:フェリペ2世)を筆頭とする西洋の海洋国家(スペイン王国没落後はイギリスとオランダが台頭)は、貿易商人や宣教師たちを新たな貴重産物、市場開拓を求めて、アメリカ大陸、そしてインド・中国の東アジア大陸へ向かわせました。スペイン・ポルトガル王国によって東アジアに来訪した西洋の貿易商およびキリスト教布教を主題としている宣教師たちは、現代風に譬えると、正に新天地(アジア諸国)の『西洋国家におけるマーケティング調査部の特派員でもあった』と言えるでしょう。

中国産の陶磁器・香辛料、そして日本産の銀を欲した南蛮商人たち

1510年、ポルトガル王国が武力行使によってインドの西海岸の都市・ゴアを占領して以降、多くの貿易商人や宣教師が同地を交易・布教の活動拠点としていました。因みに日本に初めてキリスト教を布教した宣教師・フランシスコ=ザビエル、名著「日本史」の著者・ルイス=フロイスといった日本では有名な宣教師たちも来日前には、ゴアに滞在して日本や語学の勉強に勤しんでいたと言われいます。
 ゴアを拠点として商業活動を行っている西洋の貿易商人たちは、ザビエルやフロイスをはじめとする宣教師のパトロン(スポンサー)になることによって、彼らを中国や日本など各アジア諸国に派遣して、各国の風俗や産物の調査を依頼。宣教師たちが送ってくれる情報に拠って、商人たちはアジア諸国の産物を安値で買い漁り、それらを本国(西洋)に輸出して高値で売り捌くことによって巨万の富を得ていました。
 商人たちは、ただ宣教師たちのキリスト布教のみを応援して資金を提供するという好々爺ではなく、やはり利益を追求する職業であるので、(先述のように)宣教師たちを現地マーケティング調査員として派遣してアジアの産物情報を抜け目なく入手していたことがわかるのですが、数多くのアジアの産物の中で、特に貿易商人が本国で売る商品として欲したのが、『中国産の陶磁器と生糸』・『東南アジア産の胡椒(コショウ)を含める香辛料』でした。アジアの『陶磁器』と『香辛料』この2品が当時の西洋諸国では大いに珍重されて高値で売買されていたのであります。

 

 西洋への輸出品目の1つであった香辛料、その筆頭的存在と言うべき「胡椒(コショウ)」というインド南西にあるマラバール地方の原産である植物を巡って、西洋諸国主導の大航海時代が始まったと言われているほどであり、ベネチア商人たちからは「天国の種子」と崇められ、一時期では金と銀と同じほどの値打とされていたほどであります。

 

 他の主力輸出品目というべき『陶磁器』と『生糸』の最大産地は中国大陸、16世紀中期当時の大陸は明王朝の統制下にありました。この頃の中国大陸は、大陸南東部(江南地域一帯)の農村部では綿花や蚕の生産量が高まり、それに伴って絹・綿織物、生糸産業も栄えており、明王朝期の中国は、正に手工業の活性期であり、当時、未だ生糸や絹織物産業が未熟であった戦国期の日本では大陸で生産れる生糸や絹織物は大変貴重な産物であり、誰もが欲していました。
 当時の中国は鉄砲で必要な火薬の原料となる『硝石』の世界有数の産地であり、16世紀中期以降、日本に火縄銃が伝わった以来、銃社会となっていた戦国期の日本では、戦国大名や堺・博多の大商人たちは大量の硝石も渇望していました。
 『陶磁器』について、余談となってしまいますが、思い出したことがあります。1989年に公開されたハリウッド映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」(監督:スティーヴン・スピルバーグ氏)の劇中で、ハリソン・フォード氏演じる主人公・インディアナ・ジョーンズが、ドイツ国内で敵(ナチス勢力)に囚われている実父ヘンリー・ジョーンズ(演:ショーン・コネリー氏)を救出するために敵の牙城へ単身乗り込んだ際に、彼がヘンリーに敵と勘違いされ、13世紀後期の明王朝の陶磁器(花瓶、実際は贋物)で頭を投打され、陶磁器が壊れてしまい、当初ヘンリーは息子の頭の心配よりも明王朝の陶磁器を壊してしまったことに心を痛めてしまう、という滑稽なシーンがありました。これもフィクションながらも20世紀という西洋でも中国(明王朝)産の陶磁器が貴重とされていた事を物語る一点景というべきものでしょう。
 16世紀中期の明王朝は、第14代皇帝・万暦帝(本名:朱翊鈞、しゅよくきん)の治世でしたが、初代皇帝・洪武帝(朱元璋)当時より活性化していた『海賊=倭寇』を抑圧するために、私貿易や海賊行為などを禁止する海禁政策(日本でいう鎖国)が明王朝の原則でしたが、万暦帝の代になると大航海時代が到来、その影響により中国国内では開国論が強く支持され、海禁政策は形骸化していました。
 また当時から古くから中国国内で流通していた銅銭(有名な永楽銭など)の原料である銅が欠乏している状態であり、この苦境を打開するべく明の一つ前の元王朝が物流や人の活性化を図って発行していた紙幣=交鈔に倣って、大明通行宝鈔という紙幣を発行しますが、信用を得らずインフレーションを引き起こし、中国経済流通に混乱をきたしていました。
 そこで上記の窮地を脱するべく明王朝は、15世紀前期から大陸内で流通が広まっていた『銀』を貨幣とした税制である『銀納制』を導入するようになりました。因みにこの明が15世紀から導入した銀納制が、1580年代の万暦帝の名宰相・張居正が本格的に施行した税制改革「一条鞭法」となっており、8世紀以降の唐王朝から始まった米麦や絹織物の現物納税から銀納制に代わり、これにより中国大陸を含める東アジア経済圏は『銀が主役』となり、貿易でも銀による取引となり、中国大陸では銀の需要が一気に高まってゆくことになります。

南蛮貿易を支え、海外へ流行した石見銀

上記に長々と書き連ねさせて頂いた「西洋の貿易商人」「明王朝」「日本」の3者の当時の産物状況や各々欲しているモノを簡潔に箇条書きで記述させて頂くと以下の通りになります。

 

@スペインやポルトガルの貿易商人の思惑:本国で高価で売れる中国産の『陶磁器』『絹織物』および東南アジア産の『香辛料』を渇望。
A中国(明)の産物および思惑:陶磁器と生糸産業が活発。火薬の原料である硝石の一大産地である。銀納制を導入としているので『銀』を欲している。
B日本の産物および思惑:石見銀山から豊富な銀が産出される。また刀剣など鍛冶産業が盛ん。中国産の『生糸』と『硝石』を欲している。

 

 莫大な利益を得たい@(商人)は、当時のA(中国)とB(日本)、両者の特産品と欲している産物などの情報をアジア各国に布教活動に従事している宣教師たちを通じていち早く入手した後、中国へ赴き、倭寇との私貿易によって特産の生糸を安値で大量に買い取り、それを日本へ持って行き、中国産生糸を日本で販売します。その代価として商人たちは日本の商人たちに石見銀山で大量に産出されている『銀』での支払いをさせます。そして、日本で得た石見銀を中国へ持って行き、その銀で再度、生糸と陶磁器や香辛料を大量に買い漁り、それらを本国の西洋諸国へ持ち帰り、高価で売り捌き、巨万の富を得る。
 上記の3者間での貿易関係が所謂、日本史の授業などで習う『南蛮貿易』の仕組みとなっており、古代より日本では輸入されていた大陸朝鮮文物に加えて、ルソン(東南アジア)や西洋の宗教・技術や文物といった新しい新風が国内に入り、一大変革期である戦国期の日本に大きな影響を与えることになる一方で、山陰地方で際限なく湧いて出る石見銀は西洋人、即ち南蛮商人たちによって国外へ持ち出され、世界の銀相場の根底を成すようになっていったのであります。
 世界中(厳密には南蛮商人たちと明王朝)が渇望したお宝「銀」、それを無尽蔵に産出する石見銀山の支配権を巡って中国地方の戦国大名・大内・尼子、そして毛利たちは、熾烈な闘争を繰り返すことになるのです。この3強豪間が繰り広げた「石見銀山争奪タイトルマッチ」は最終的に、安芸国(現:広島県西部)の戦国大名・毛利元就がチャンピオンベルト(石見銀山)を手に入れることになるのですが、この詳細は次回の記事で紹介させて頂きたいと思います。

 

 因みに、当時のスペイン・ポルトガルという西洋、即ち「西方の人々」を、何故「南蛮およびその商人を南蛮商人」と呼ぶようになった理由についてですが、「南蛮」という名詞は古代中国の中心地とされている黄河流域の中原に住まう人々(王朝)で成立した異民族の軽蔑用語の1つでありました。現在の地理でいう大陸の河北省や河南省を中心とした即ち「中原」を拠り所として大陸に君臨した歴代王朝は、自分たちこそ世界および文化の中心であることを自負し(この傾向は現在でも中国の人々に残っていますが)、中原以外の東西南北に住まう人々を蛮族(野蛮人)として卑下して、以下のように呼んでいました。
 即ち、北極の異民族を「北狄(ほくてき)」、極東の異民族を「東夷(とうい/あずまえびす)」、西の異民族を「西戎(せいじゅう)」、そして南方の異民族を「南蛮」と呼んでいました。先述のようにポルトガル人は1510年以降、インド南西のゴアをアジアでの活動拠点して、中国東南(交趾=現在のベトナム北東部)、インドネシアやフィリピンなどを東南アジア諸国を経て、北東にある日本へ来訪してきました。よって日本では「南の海」から来日してきた西洋人を、中国中央で用いられた南方の異民族の呼称をそのまま用いて「南蛮人」と呼ぶようになったのであります。