大内氏と尼子氏に翻弄される弱小・毛利元就

 以前の記事で、一代で国人領主から大勢力に成り上がった毛利元就が支配した「中国地方は、戦国期当時、農業生産力(石高)が軒並み低いが、『海(貿易)の利権』と『山(鉱山)の宝庫』であり、天下有数の好地であった」ことを紹介させて頂きましたが、今記事では、安芸国(現:広島県西部)で、しかもその山間地の吉田盆地(現:安芸高田市)の当初、鉱山など格別な経済力を持たない典型的な国人領主であった元就が、海の利権と山の宝庫を手に入れ、中国地方の覇者になったのかを探ってゆきたいと思います。

 

 毛利氏の当主であった元就の兄・興元(1516年没)、その子・幸鶴丸(1523年没)が相次いで若死にしたことにより、27歳であった元就は毛利氏の家督を相続。そして、元就を当主として仰ぐことを快しとしない異母弟・相合(あいごう)元網、それに加担する坂広秀や渡辺勝たち反元就家臣団を粛清することによって、当主・元就は毛利家中の結束を図っています。
 元就が骨肉の争いを漸く制した頃(1524年)の毛利氏は、安芸の山間・吉田盆地の所領3千貫(石高に換算すると約4〜5万石)程度の小さい国人領主であるにも関わらず、西からは周防長門(現:山口県)を中心に北九州まで勢力を伸張している大内氏、東からは出雲石見(現:島根県)を中心に山陰で勢力を蓄えている尼子氏という2大勢力に挟まれており、元就率いる弱小・毛利は、その両者の覇権争いという大嵐の中を翻弄させ続け、今にも沈没(滅亡)しかけている小舟ような存在でした。

 

 上記の毛利氏にとって命旦夕迫る状況から脱却するために、元就は西の大内氏の傘下に入りつつ毛利氏の勢力を安定を図ると共に、安芸国内で勢力拡大を目指してゆきます。即ち、後に「戦国一の謀将および謀神」とも謳われるようになる元就得意の調略・外交戦略を展開し、毛利と同類である安芸国内に割拠する国人領主たちを婚姻で取り込んだり(宍戸氏や熊谷氏)、時には大内氏のバックアップを受けつつ武力を用いて、反大内/毛利勢力(親尼子派)の国人領主(高橋氏や安芸武田氏など)を討滅し領土を拡大してゆきました。
 安芸国内で、元就が宿敵・大内の尖兵となって毛利氏の勢力が徐々に拡大してゆくことに危惧感を募らせた山陰の尼子詮久(のちの晴久)は、1540年、3万の大軍を率いて安芸へ攻め入り、元就の本拠・吉田郡山城を包囲します。しかし、元就は、盟友で娘婿でもある宍戸隆家などの国人領主の協力を得た上、自身は将兵や領民8千とともに郡山城に籠城し、尼子の攻勢に耐えて、最終的に大内からの来援を取り付けることができた元就は、1541年1月、尼子の大軍を撃退することに成功し、元就は安芸国の国人領主たちのリーダー的立場をより強固することに成功し、戦国大名としての地位を確立してゆくことになります。
 吉田郡山城の戦いで、尼子氏を撃破することに成功した大内氏当主の義隆や武断派の重臣・陶隆房らは、1542年、元就を含める安芸や備後の国人衆を率いて、尼子氏の本拠である出雲の月山富田城を攻略しますが、難攻不落の富田城を落城させることは困難を極め、戦況は大内軍不利になってゆき、元就の正室(妙玖の方)の実家である安芸国人領主・吉川興経など多くの国人領主軍が敵の尼子軍に寝返ったことによって大内遠征軍は瓦解し、撤退。1543年、大内軍に従軍していた元就も尼子軍の猛追撃を受け、命からがら安芸へ逃げ帰っています。
 大内・尼子という中国地方の2大勢力が大合戦(吉田郡山城の戦いと月山富田城の戦い)で敗北し、両者間の勢力均衡に綻びが見え始めたのを敏感に察知した元就は、大内と尼子で起こる嵐で翻弄される毛利小舟から完全に脱却し、元就の本貫地である安芸、その隣国で瀬戸内海に接する備後国(現:広島県東部)を支配下に置き、戦国大名として独立することに邁進してゆきます。
 一国人領主層の出身である元就がそれを実現させるためには、現在以上の「経済力」、それから産出される「軍事力」が必要不可欠でありますが、国土の多くが山地で占められている中国地方では、米の生産によって経済力(貫高/石高)を身に付けることは困難であります。そこで元就が着目していたのが、この記事冒頭で記述させて頂きました中国地方特有の「海」と「山」から育まれる経済力でした。
 先に、元就は得意の調略や外交によって、周囲の国人領主たちを味方に付けてきたことを紹介させて頂きましたが、その中でも、謀神・元就の面目躍如となる最高の成果を上げた調略は、『国人領主の乗っ取り』でありますが、特に次男・元春を「吉川氏」、三男・隆景を「小早川氏」へ養子として送り込み、両氏が有する経済力と軍事力を毛利氏勢力に完全に組み込んだことは有名であります。これが後々まで戦国大名・毛利氏が飛翔する礎となる「毛利両川」であり、吉川・小早川の当主となった元春・隆景兄弟が類稀な智勇兼備の大器であったのが毛利氏とって大きな幸運であったことは間違いないのですが、兄弟の父であり、乗っ取りを画策した元就が何よりも欲していたのは、両氏が有していた『「山」と「海」から産み出される豊かな経済力』でした。
 智将・元就は、山と海の富を兵力を動員して己の経済力の消耗を大きくすることなく、調略で吉川と小早川の経済力を我物にしたことになるのですが、東京大学史料編纂所の名物教授である本郷和人先生は自著『真説戦国武将の素顔』(宝島新書)内で、この元就の鮮やかなお家乗っ取り手口を、『現代のM&Aの先駆け』と評しておられます。(また同時に、元就のことを『表面はニコニコしながらも、中では何を考えているのかわからない、嫌な野郎です』という意味合いで評してもおられますが)

「海の小早川氏」を乗っ取り、瀬戸内海の利権を手に入れた元就

 筆者の以前の拙記事で、元就が一躍中国地方の覇者の登龍門となった厳島の戦い(155年)は、『瀬戸内海航路の重要拠点であった富の宝庫・厳島の領有権を陶晴賢(大内氏)と巡る争いであった』という主旨として執筆させて頂きましたが、そもそも吉田盆地を中心とした山間の国人領主であった元就が、当時でも海上交通(貿易)が盛んであった瀬戸内の利権を手に入れる切っ掛けになったのは、海に接している安芸南部の沼田荘と竹原荘(広島県三原市)を本拠に、室町期以来、有力な水軍を有していた『小早川氏』を乗っ取ったことから始まります。
 元就は1544年、小早川の分家筋にあたり、当時、当主不在(先年、当主・興景が世継不在のまま病死)であった竹原小早川氏に未だ12歳の少年であった三男・隆景を養子として送り込み、初めて海の利権を入手することに成功します。そして、本家である沼田小早川氏も1550年、当主・繁平が病弱(盲目)であったために家中を統制できず家臣団の間で内部分裂が発生したのを好機と見た元就は大内氏の助力を得て、当主・繁平を強制隠居させ、繁平派に属していた重臣・田原全慶などを粛清することによって、隆景を小早川本家の当主に据えることに成功しました。ここに安芸国で海の利権を把握していた国人領主・小早川氏は元就・隆景父子によって毛利氏の勢力下に組み込まれたのであります。

 

 元就はこれにより、小早川氏が有していた大きな利益を産み出す瀬戸内航路上の港を把握したばかりでなく、瀬戸内の芸予諸島に本拠を置き、瀬戸内航路を通る船舶から通行税(駄別銭)を徴収したり、大陸貿易で莫大な経済力を有して戦国期で最大の水軍勢力(海の大名)として君臨していた「村上水軍」と深い繋がりを持っていた小早川の譜代家臣団(人脈)も手に入れることが出来ました。特に小早川氏の庶流でもあり、筆頭家老的存在であった乃美(浦)宗勝は、村上水軍の一族・因島村上氏当主であった村上吉充とは義兄弟の間柄(吉充の妻は宗勝の妹)であり、因島村上氏を親毛利派する外交工作で活躍しています。

 

 元就は、小早川氏が保持していた「海からの収入」「海の人々と繋がりを持つ人脈」を手に入れることによって、毛利氏の勢力を徐々に拡大してゆくことに成功。そして、隆景や先述の水軍と関わりの深い乃美宗勝を使って、村上水軍を味方に付けた上、1555年、大内氏をクーデター(大寧寺の変)で事実上、乗っ取っていた陶晴賢を厳島の戦いで破り、瀬戸内航路の最大貿易港であった厳島を支配下に置き、合戦から2年後の1557年、晴賢を失って衰退の一途を辿っていたかつて毛利氏の主筋であった名門戦国大名・大内氏を滅ぼします。これにより、元就は安芸・備後に加え、周防・長門の4カ国を有する戦国期を代表する有力戦国大名へ急成長しました。時に元就59歳。
 元就は、それまで地理的環境を活かして、大陸(明)貿易や日本最大の大動脈である瀬戸内海航路を抑えることによって莫大な経済力、それに支えられている軍事力を背景に毛利氏を含める多くの中小勢力を支配下に治めていた大内氏を滅ぼしたことによって、山陽地方の海の利権をそっくり手に入れます。
 かつてNHKで放送されていた歴史教養番組『堂々日本史』で「毛利元就 覇権への軍資金戦争」の事を扱った際(1997年3月11日放送)に、VTR出演されていた広島女子大学助教授(当時)であられ、毛利氏研究の第一線でご活躍されている秋山伸隆先生(現:広島県立大学国際文化学科教授)は、元就が当時、瀬戸内海の主要の港町であり経済的にも繁栄していた「安芸の草津と廿日市」、「備後の尾道、鞆」、「長門の赤間関(下関)」を毛利氏の直轄領として抑えて直接支配していたことを説明され、更に港町が有している「商人の経済的な力」「職人たちの技術」「町にある船」、これらを毛利氏が抑えることが重要な意義であったことも述べられています。
 戦国大名・毛利氏は、己の出自事体が国人領主であったために、他の国人領主と結束して成り立っている、所謂「中世型戦国大名=ボトムアップ型)」であったので、他の国人領主たちより経済的にも軍事的にも優位に立たなければ権威を保つことができませんでした。そこで元就は瀬戸内海の利権(主要な港町)を直接支配することによって、毛利氏の経済的優位を確立していったのであります。

 

 毛利氏の勢力を出来る限り伸張させるために元就が、偶然当主不在であった海の利権や人材を有していた小早川氏を乗っ取っていたことが功を奏し、厳島合戦での大勝利、中国地方の覇者への飛躍のみに留まらず、天下の覇者・織田信長との対決(1576〜1582年)、天下分け目・関ヶ原合戦と敗北(1600年)、永い雌伏の時を経て江戸幕末の長州藩(毛利氏)の討幕運動の原動力の1つになるという毛利氏が後々まで日本史上の大転換点の中心に存在していたことを考えると、元就が小早川氏を乗っ取ったことは後世に途轍もない足跡を遺したことになります。

 

 最後に白状させて頂くと、元就が次男・元春を使い、自分の妻の実家であり「山の宝庫」を抑えて勢力を誇っていた国人領主・吉川氏の乗っ取りの事も今回の記事で執筆させて頂くつもりでいたのですが、結局、筆者の能力不足で思った以上に元就や毛利氏について、「海の小早川氏乗っ取り」についての記述が多くなってしまい、残り少ない執筆期限までに元就が吉川氏の乗っ取り、山の宝庫を把握することを十分に書ける自信が筆者に無いので、この事については別の記事で紹介させて頂きたいと思います。