上杉謙信の京都外交を可能にした『経済力』

越後国(現:新潟県)の戦国大名・長尾景虎こと後の上杉謙信が、父・為景以来の外交路線を受け継ぎ、(戦乱により形骸化したとはいえ)当時の中央政権である朝廷や室町幕府に対して朝貢(莫大な献金)などを行うことによって中央政権との結びつきを強化し、朝廷からは「紺地の日の丸旗」、幕府からは越後守護職に相当する役職などを下賜および拝命されることによって、本来越後国内ナンバー2の家柄(守護代)である長尾氏の家格を高めることにより越後国内に割拠する有力勢力を纏め、越後を戦国大名として支配してゆく大義名分を得ることに積極的であった。という内容を以前の記事で紹介させて頂きましたが、今回は、謙信が何故、中央政権に対して莫大な献金を行うことが可能な『経済力』を有していたのか?その要因について紹介させて頂きます。

一大繊維産業地帯かつ日本海交易の要衝である越後に拠った謙信

 越後、周知の通り現在の新潟県であり、日本有数の米所として有名であることも皆様よくご存知のことであります。勿論、謙信存命中の戦国期の越後も当代随一の米の産地であり、謙信はその莫大な米の生産力(石高)によって財を蓄え、戦国を代表する大名に君臨した。と思いたいところでありますが、謙信が統治した頃の越後というのは、国土の殆どを沼地や潟で覆われた地理的環境の上、大雪や冷害といった気候障害が原因により、決して米の産地とは言い難く、国土の広さの割には石高も39万石という低さであり、現代風に言えば農業後進地帯でありました。寧ろ織田信長が基盤とした東海の濃尾平野の方が当時は、国内有数の米の産地であり、信長の故郷である尾張国(現:愛知県西部)のみで石高58万石という高さでありました。因みに、越後こと新潟が現在のように、国内有数の米の産地となるのは、謙信が没してから350年以上経ってからの現代(戦後)になってからであります。

 

 戦国期、謙信が拠った越後が米の産地でなく、米からの財源を大々的に活用できない経済状況であったのなら、謙信は膨大な軍事費、そして中央政権への外交費用をどの財源から捻出していたのか?それは『海上交易の把握』『麻織物の原料となった青苧(カラムシ)=繊維産業の独占』から出る莫大な利益によって諸費用が賄われていたのであります。
 当時、日本海は海上交易の主流海路であったと言われおり、海に面する出雲国(現:島根県)の「美保関」、若狭国(現:福井県東部)の「敦賀湊」、出羽国(現:山形県および秋田県)の「酒田湊」・「十三湊」が交易の要衝として鎌倉・室町の中世期にかけて特に殷賑を極めたことが有名ですが、東西に長い日本列島のほぼ北中央に位置し、横長で海に面する越後国内にも多くの日本有数の湊が存在しておりました。
 2006年に出版された書籍ではございますが、信州大学人文学部教授(当時)である笹本正治先生がお書きになられた『実録・戦国時代の民衆たち』(一草舎出版)という一次史料などを基として、甲信越地方を中心に戦国期の気候災害や合戦などで苦汁を味わった民衆たちの姿を如実に記述した内容、他にも当時の産物についてや信仰と霊場といった宗教関連、更には戦国経済を下支えしていた技術者・商人、運輸/流通関連にも詳細に説明されている素晴らしい著作となっています。
 笹本先生は、『中世の港は川と海を結ぶような場所に存在するのが一般的であった』と同書内(第6章 戦国の道と運輸「新潟と直江津」)で先ず記述されており、日本海に面する越後国内では阿賀野川と信濃川の2大河口部であった『新潟港(旧:沼垂津と蒲原津)』が中世から大きな港として栄え、国府・守護所が置かれ越後国内の中心地とされていた越後府中(現:上越市)にも関川河口部に当たる『直江津』も港町として栄えていたこともご紹介され、結論として越後には湊・津・泊・浦といった港に関係する文字がつく地名が多くあることに触れられ、中世の越後には多くの潟があり、日本海の荒波を受けないで水上交通をすることができる場所がたくさんあり、現代人が考えるよりも水上交通は身近なものであった、と述べられています。
 余談ですが、謙信とほぼ同世代である尾張国(現:愛知県西部)の織田信長が父祖の代から受け継いだ織田氏の経済的基盤となった「津島湊」も伊勢湾に面し、木曽三川の河口部に位置する良港でありました。

 

 謙信は日本海交易の通り道であり要衝である(笹本先生が言われる)越後国内にある湊、特に本拠地・春日山城の至近である直江津、次いで柏崎湊を抑えることにより、そこを出入りする多くの交易船から湊税(関税)を徴収することによって大きな利益を得ていたのであります。

 

 湊以外の収入源以外に謙信が有していたもう1つの大きな収入源は、『青苧(あおそ)』でした。青苧(別名:カラムシ)とは、ニラクサ科の植物であり、木綿が一般化されていない戦国期にあっては麻織物の原料として珍重されてきた繊維植物であります。現在、青苧は新潟県中越地方の南魚沼市や小千谷市を中心に栽培されていますが、戦国期では謙信の本拠地である頸城郡(くびきぐん/上越)や古志(下越)など越後国内の至る所で栽培されており、越後は日本一の青苧生産地と言われています。
 青苧を乾燥させた繊維を割いて細い糸をつくり、それを織り上げて完成するのが、『越後上布(越布)』であります。越後上布は飛鳥〜平安期など古い頃より朝廷へ献上されるほどの最高級品とされ、鎌倉期でも1192年、源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任じられた際に、就任祝いのために京都から下向した勅使(天皇の使者)に頼朝は越後上布をお礼の1つとして贈呈したことが鎌倉幕府の公式文書とされる「吾妻鏡」に記録されています。更に室町期になると、越後守護である上杉房定が当時の室町幕府9代将軍足利義尚に越後上布を献上している記録がある上、越後上布は男性庶民の夏用衣服や武家男子の夏用礼服というべき「素襖(すおう)・透素襖(すかしすおう)=別名:直垂」の材料として使われるようになることになり、増々全国での価値観および需要が高くなりました。
 上記のように、朝廷・武家など身分を問わず、人が暮らしてゆくには「衣・食・住」の3大要素の内の「衣」を司っていた越後上布、そしてその原料となる青苧。かつて謙信の主筋に当たった越後守護の上杉氏も青苧の栽培と上布の生産を奨励しており、戦国期になり謙信の父である長尾為景が下克上により上杉氏を傀儡化にして越後の支配者になると、為景が青苧や上布の栽培生産および国外への販売ルートを把握するようになり、次代の謙信になるとよりその体制を強化されました。
 謙信は、京都や大坂などの多くの越後国外の上方商人(即ち青苧座)が、日本海航路を経て、直江津に入り越後府中(謙信の城下町)へやってきて青苧を買い付け来た際に、謙信は青苧に対して関税をかけて商人たちから税金(船道前)徴収したのであります。事実、謙信が1560年(有名な第4次川中島合戦の前年)が越後国内へ発した命令書(お触れ)である『長尾家老臣連署条目』には、『(越後国外から来る)青苧座の船は、積荷の量を調べ税を課す』という条目があります。当時の生活には必要不可欠な衣類の材料、および権力者への献上品となっていた越後上布、その上布の原料となる青苧。利に聡い商人たちが課税されようが大挙して謙信の膝下である越後に来て青苧を買いに来たことは想像に難くありません。

 

 謙信は以下の通り、
@『青苧およびその販売ルートを独占』
A『それを含める物資が運び出される出入口となっていた直江津・柏崎などの国内有数の湊を支配』

 

といった経済政策を実施することによって莫大な富を入手。この潤沢な資金源を元手に、有名な5度にわたる川中島の戦い、関東出兵(三国峠越え)など敢行し、今記事冒頭で述べました朝廷や足利将軍家に対する中央政権への外交工作に要する多額な費用(献金)を賄っていたのであります。

謙信の経済政策のブレーンであった蔵田氏

 斬新な経済政策によって富を蓄え、勢力を伸張していった戦国大名では、先ず思い浮かぶのが織田信長でありますが、その信長の力の源泉となった強力な経済を支えた人物として有名なのが堺の商人・「今井宗久」であります。宗久はいち早く信長の将来性を見抜き信長を支持、後に信長の御用商人的立場になり、織田軍の鉄砲製造や弾薬の調達、堺の奉行、但馬生野銀山の監督など文字通り、信長を経済面で見事に支えたブレーンの1人でありました。
 先述のように、謙信も(信長ほど斬新な経済感覚を持っていませんでしたが)、物流の要衝である湊、青苧や越後上布の生産および販路を抑えることによって大きな経済力を手に入れるほど優れた経済政策を実施しています。その謙信の経済政策を支えた人物が『蔵田五郎左衛門』という商人でありました。
 蔵田氏の出自は、当時から商人の所縁が深い伊勢国(現:三重県)の御師(下級神職)であったと言われており、先出の笹本先生の説に拠れば、その御師活動を通じて越後へ定住し、商人になったとされています。
蔵田は、越後青苧座(越後苧座)の筆頭商人として長尾為景の財政面を支えるようになり、長尾氏の財源となっていた青苧や上布の販売および京都への出荷などの重要な仕事を任されていました。為景の子・謙信の時代になると一連の青苧の販売、その徴税などに加え、青苧などを含める大量の物資の集積地であり、直江津を抱える越後府中を管理する代官ような役目を兼任するようになり、1561年、謙信から府中の火の用心に気を付けるように命じられた上、府中町内にある家屋の屋根を茅葺から板屋根に改築させることも重ねて命じられ、もし板屋根に改築しない者は蔵田が成敗せよ、と裁量を一任されています。また蔵田は謙信直属の家臣である旗本衆としても仕えており、謙信が他国へ出兵の際は、春日山城の普請や留守居役として謙信のバックアップを行っていたと言われています。
 謙信と上杉氏の経済面を支える蔵田の関係は密接なものであり、蔵田は謙信の継いだ上杉景勝(謙信の甥)にも仕え続けました。因みに、為景・謙信・景勝の3代に渡って仕えたとされる蔵田氏の当主は代々五郎左衛門を世襲しており、それ以外の蔵田氏の詳細は実に不透明なものとなっております。

 

 

 以上のように、謙信の中央工作を支えた経済力、その経済面を支えたブレーンとしての蔵田氏を今記事で紹介させて頂きましたが、次回は越後という当時の中央政権である京都から遠く離れた日本海側の越後に割拠する大名である謙信がどのようにして、『京都との繋がり(パイプ)』を維持し続けたのか?今度はそれについて紹介させて頂きたいと思います。