当時の中国地方は、「天下一等の富の宝庫」であった

 日本の戦国期というのは、「下克上の時代」とよく言われているように、必ずしも大勢力(名門)が未来永劫、大のまま生き残ってゆくという例は殆ど無く、寧ろ「下が上に克つ」という言葉通り、小(卑賎)が大を併呑してゆき、地方、最終的には天下へ覇を唱えるという事例が日本各地に存在します。その筆頭的存在が、守護代配下の奉行の家柄であった織田信長や、その配下で平民出身者である豊臣秀吉でありますが、その彼らの約40年以上も先輩に当たる安芸国(現:広島県西部)の小勢力の一国人領主であった『毛利元就』も、名門・大内氏や尼子氏を滅ぼし、中国地方の大勢力となった下克上の代表格であります。
 元就が一代で、安芸の山間の吉田荘に拠った国人領主から山陰山陽の10ヵ国を治める戦国期を代表する有力者の1人になれたのか?それはやはり、勢力を拡大してゆくに連れ、米という経済力(石高・貫高)の他に『「海」と「山」から輩出される富』を上手く確保していったからであります。これから、西国の雄となった毛利元就の軍資金(経済力)獲得戦争について探ってゆきたいと思うのでありますが、先ずは元就が拠った『中国地方が当時は如何なる場所であったであったのか?』ということを探らせて頂きます。

 

 先述のように、元就の毛利氏は元々、安芸吉田(現:安芸高田市)3千貫(約6万石)のみを領有し、それ以外の財源(鉱山や貿易拠点など)は持たない零細国人領主でありました。少し余談となりますが、東海の織田信長は、父祖より小規模ながら豊かな領国(穀倉地帯)の他に、「湾港拠点(津島と熱田)」という豊富な財源を受け継いだという点を見ると、地理的環境の影響により山間の領国しか支配していなかった毛利氏は気の毒と言えば気の毒であります。
 毛利と同様である同国内の国人衆であり、後に毛利の傘下に入ることになる吉川・小早川・熊谷・天野・宍戸・平賀といった諸氏の方が寧ろ毛利氏より勢力が上回っていたかもしれません。特に、後年有名な毛利両川体制を担う「山の吉川」と「海の小早川」の両氏は、領国の他に「鉄や木材という山の資源(吉川)」・「海上交通の利権(小早川)」の財源を持っており、吉田3千貫のみの領土を保持している毛利氏よりは明らかに勢力(経済力)は上でありました。
 元就が毛利氏当主になった時期(1523年頃)の安芸国内は、守護大名であった安芸武田氏の権威が弱体化し、上記のように毛利氏と同格あるいは格上の国人衆が各地に割拠している状態であり、大した穀倉地帯でもない領土、他の財源を持たない毛利はいつ戦国の動乱により消滅しても不思議ではない状況でありました。
 毛利氏を含める中小国人領主集合地帯である安芸の西の周防長門(現:山口県)では、名門守護大名を出自とする「大内氏(当主:義興・義隆父子)」が、平安期の英傑・平清盛以来、日本の海上交通の大動脈であった瀬戸内の海上交通の利権や要衝(赤間ヶ関や厳島)などを把握し、更には中国大陸と近距離である地理的好条件を活かして大陸貿易によって巨万の富を得ており、当時、西国最大の戦国大名でした。
 一方、安芸の北西の山陰地方では、出雲石見(現:島根県)に拠る守護代出身の戦国大名・「尼子氏(当主:経久、その嫡孫である晴久)」は、武具(刀剣・甲冑・鉄砲)や農具製造には絶対不可欠である出雲鉄(雲州鉄)の製鉄産業を支配下に治め、鎌倉期以来の西日本海交易の重要拠点であった美保関港、鉄の輸出入の拠点となった宇竜(宇料)港などの海上交通を抑えて、周防長門の大内氏の対抗勢力として存在していました。また両勢力とも石見国(現:島根県西部)に存在した当時世界有数の『石見銀山』を巡って激しい争奪戦を繰り広げていました。
 近代の中国地方は、広島市や岡山市などの政令指定都市を除く地域(特に山陰の山間地)は、過疎化などが社会問題になっていることを、筆者は学校の社会科で習った記憶がありますが、元就たち在世の戦国期の中国地方は、「海上交易の要衝」・「鉄」、そして「銀山」を有した『日本トップクラスの宝庫』であり、先述のように、戦国期以前より海外貿易の大動脈である瀬戸内海を抱え、銀山は国内一どころか世界有数の銀採掘量を誇り、鉄資源についても、当時の日本全国の主要な鉄生産地は、安芸国北部、出雲国(現:島根県東部)、備中国(現:岡山県中部)の北部といった中国地方に集中しており、これらは後の日本近代産業発展の一翼を担った「八幡製鉄所(現:新日鉄)」の様相を呈していました。
 中国山地が一本の背筋のように、地方の中心を東西に伸びている山陰山陽では、関東や濃尾のような広大な平野部は特に少なく(これが現代における過疎化の原因の1つになっていますが)、田畑開拓は難しく、当時の経済界の根幹であり、富の象徴であった米穀の穫高(石高)は決して裕福なものでありませんでした。事実、元就時代の後年となる天下人・豊臣氏が実施した有名な政策「太閤検地」の国別石高表に拠ると、毛利氏の本拠であった安芸国は「約19万4千石」、西国一の勢力を誇った大内氏の本拠であった周防国で約16万7千石+長門国・約13万石で合計「29万7千石」、次いで山陰の強豪・尼子氏の本貫地であった出雲国で約18万6千石+石見国・約11万1千石で、合計は大内氏と同等の「29万7千石」であります。
 1万石の経済力での軍勢可能動員数(軍事力)は、『約250人〜300人』と言われていましたので、安芸で約4800人、周防長門で約7400人、出雲石見で同じく約7400人という軍勢が動員可能となるのですが、これらの石高から見た経済力および軍事力は、全国では決して上位ではなく、東海の「尾張(現:愛知県西部、約57万石)」や北陸の「越前(現:福井県東部、約49万石)」、四国の伊予(現:愛媛県、約36万石)といった諸国と比較すると、寧ろ低い経済力でした。
 平野部という限られた「陸地の経済力」が軒並み低かった中国地方で、戦国前期では大内氏や尼子氏の2強が出現し、後の戦国中期〜後期にはその2大勢力を併呑した中国地方の覇者・毛利氏が現れ、天下の覇者であった織田信長の最大敵対勢力として存在できたのは、『海(交易)の利権』と『山(鉄・銀)の富』を有していたからであります。
 当初は安芸の小勢力であり、海の利権を握る西の大内、山の資源を握る東の尼子との抗争で翻弄され続けてきた元就率いる毛利氏がどのようにして「小よく大を制す」という譬えの通り、中国地方に存在する海や山の宝庫を奪取し、2大勢力を屈服させていったのかを次回の記事から探ってゆきたいと思います。