漸く「戦国期を生きた民衆」について書きます

今更ながら、此方のサイトでは『戦国武将と民衆時代考証』と銘打って、(拙いながらも)日本の戦国時代について半年以上、少量ながらも記述させて頂いており、現時点(2018年11月)では、織田信長をはじめ上杉謙信・武田信玄・毛利元就といった有名戦国武将たちについての関連記事を中心に執筆させて頂いております。
 成程これまで筆者は、当サイトの主題である「戦国武将」ついては、先述の有名武将関連記事を自分なりに真剣に記述させて頂いておりましたが、もう1つの主題である『民衆』については、これまで全く記述しておらず、武将紹介に著しく偏った内容になっていました。
 当サイト管理(メインテナンス)をご担当して下さっているI氏と相談して『戦国武将』『民衆時代考証』という両輪で鈍行ながらも進んでゆくことを、サイト立ち上げの際に決めた以上は、武将のみの一車輪に偏重するのは、進むのに不安定かつ面白味に欠けるのもを感じるので、今回はもう1つの車輪となる戦国期の『民衆』について紹介させて頂き、このサイトの前進姿勢に安定感を持たせたいと思います。
 因みに、下手な横好きとは言え、今まで向こう見ずに有名武将ことばかり書きまくってしまっていた筆者に注意をして下さったのが、先出の管理担当のI氏でした。この場をお借りして、I氏には改めて御礼申し上げます。
上記のように、今回ようやく戦国期の民衆関連についての記事を執筆させて頂くことになったのですが、民衆について、とはあまりにも抽象的過ぎるものがあり、その集団の中には、戦国期経済の中心を担った農業従事者である農・漁民が存在し、一方では鎌倉後期〜戦国期にかけて日本国内で大きく発展した商工業・流通業を支えた商人・職人・運送業者といった無数の民衆も生きて、信長や信玄といった有名武将と共に戦国という時代を構築していたことは歴然とした事実なのですが、これらの無数の人々について、詳細に調べ上げた上、記事にするという、凡夫である筆者にとって、尊敬する磯田道史先生や本郷和人先生のような無限に湧き出る泉の如き知識や表現能力および研究や記述に要する根気が無いので、農民や商工業者についての記述は後の機会にしたいと思います。

 

 何やら延々と、「戦国民衆については抽象的過ぎて、現時点でこれらについて書くのは難しい」といった、筆者の情けない言い訳が強調されているようで、今更ながら恥ずかしく思っているのですが、決して戦国民衆について記述することを投げ出した訳ではありません。
 戦国民衆について執筆することを決めた上、今度の記事では民衆についての何を書こうか?と以前思案していた折、10年以上前に筆者が謙信の所縁の地である春日山城址(現:新潟県上越市)を訪れた際、偶然見つけ購入した書籍があることを思い出しました。2006年に一草舎から出版された『実録 戦国時代の民衆たち』(以下、本書)という書籍であります。
 当時、信州大学人文学部の歴史学教授であった笹本正治先生が著された素晴らしい歴史書でありますが、現在、戦国民衆についての関連記事の執筆を行おうとしている筆者にとって道標になってくれている名著の1冊であります。今記事、否、今後の戦国民衆について記事でも『本書』を参考をさせて頂き、執筆してゆきたいと思っているのですが、今回は本書の第1章でも掲載されている『戦国時代の気候について』を参考にさせて頂き、『寒さと戦った戦国の人々』を今記事の題名として筆者なりに記述させて頂きたいと思います。

戦国期を含める中世は『小氷河期』であった

今年2018年は、1〜2月は豪雪、夏は連日の猛暑、その後には毎週の大型台風接近、それに伴う記録的豪雨といった「異常気象」が日本全国に深刻な被害を与えたことは皆様よくご存知のことだと思います。戦国期よりもはるかに科学的進歩を遂げ、災害対策も強化されている現代日本でも、自然がもたらす人智をも超える巨大な力を以って人や国土に甚大な被害をもたらしており、戦国日本を含める日本史は人類と災害との戦いであり、現在も災害vs人類の対決が続行中であります。
 洪水などの水害などは戦国期・現代に問わず大きな被害をもたらしていますが、現代のように暖房や家屋の建築技術が発展していない戦国期では『寒さ(極寒)』も深刻な死活問題であったことは間違いありません。
 『15世紀(筆者注:戦国期を含める中世期全般)は小氷河期で、記録的な寒い時期だったのです』と、笹本先生が本書内で書かれています。小氷河期という言葉を読んだだけで、全身が凍えるような気分になってしまいますが、実際当時は、気候不順や極寒で庶民は苦しめられたらしく、1483年4月5日に信州諏訪郡では、『午前6時頃から雨が降り、風が強く吹いて寒く、老人や子供が凍死した』という記録があることを笹本先生は本書内で紹介されています。現在での4月は一般的に春季を迎え、徐々に桜の開花宣言などのニュースに接するような温暖な時期ではありますが、紹介のように戦国前期では雨や風により凍死者を出しているほど気候が安定せず、寒い時期であったことがわかります。当時は、家屋構造も粗末であり、外からのすきま風が通り、保温繊維である木綿も貴重で一般的に普及しておらず、更に暖房手段と言えば、勿論、現代のように便利な灯油暖房器具が無く、殆どが木炭のみ、という衣と住の環境となれば、多くの凍死者も仕方ありません。
 小氷河期という過酷な時期を生きた戦国期の人々には「極寒による凍死のみ」が大敵ではありませんでした。極寒という気候不順による『飢饉』もまた大敵でした。14世紀半ば〜19世紀というまことに長い間、世界全域は小氷河期(英語名:Little Ice Age)であり、極度な寒冷により農作物の不作による飢饉が頻発し、日本の時代でいう鎌倉末期の1315年には、飢饉によって世界で約150万人の餓死者が出たと言われています。
 戦国期には正長元(1428)年・文明5(1473)年・永正2(1505)年といった大飢饉が日本各地で発生し、永禄2(1559)年に関東を含める東日本で発生した永禄大飢饉では、関東で勢力を誇っていた相模国(現:神奈川県西部)の戦国大名・北条氏康(小田原北条氏3代目)が統治を刷新するために嫡男・氏政(同氏4代目)に家督を譲渡することを余儀なくされ、当時氏康と盟友関係にあった武田信玄の本拠地である甲斐国(現:山梨県)も飢饉によって大きな被害を受け、信玄の窮状を好機と捉えた宿敵・上杉謙信(当時は政虎)が武田氏の領国へ侵攻を開始し、有名な第4次川中島の戦い(1561年)まで事態が発展しています。戦国史研究でご高名な駿河台大学教授・黒田基樹先生は自著『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)内で、戦国期のことを『慢性的飢饉の時代』と評しておられますが、小氷河期が主因による飢饉は北条氏康・氏政父子の世代交代や謙信と信玄の一騎打ち伝説で有名な第4次川中島の戦いの遠因ともなっているのであります。
 余談となりますが、時代が戦国期により下りますが、17世紀前半〜19世紀前半にかけて発生した有名な寛永・享保・天明・天保といった年号に大雨や冷害で発生した大飢饉(江戸四大飢饉)も、小氷河期による気候不順に原因となっていることが明らかでありますが、この大飢饉により、特に江戸幕府の勢力基盤である関東および東北に甚大な被害をもたらし、多くの餓死者が発生。開府以来、米穀経済主義(石高制、即ち幕藩体制)を貫いてきた江戸幕府にとって米不作による大飢饉は統治基盤が崩壊していくことになり、ひいては後々の討幕運動の遠因となっています。
 元来、米(稲)という世界一美味しい穀物は、現在の温暖多湿である東南アジアのベトナムが原産地だと言われ、日本に稲作が伝来した経緯については諸説はありますが、中国の雲南省、長江(揚子江)などを経て、日本に稲作が伝わったと言われています。米は本来、ベトナムや雲南省といった温暖な気候に適した作物であったのです。その温暖な国の原産地としている米が、極東の日本、その終わりである東北という寒冷の地では古来より、稲作には向かない地方であったのです。その証拠に、江戸期通じての米の名産地は、日本国内で温暖である九州・筑前国(現:福岡県北部)であるとされている上、天保の大飢饉では九州の真逆に位置する東北地方を中心に多くの餓死者を出しています。
 現在でこそ、米の一流ブランド品は秋田県・宮城県など東北に集中していますが、これは先人の苦心努力によって稲の品種改良および栽培方法が進化した現代の賜物であり、戦国・江戸を含める中世期は小氷河期による気候不順によって稲作には適さない土地であったのです。

上杉謙信が何度も関東へ侵攻した理由とは?

 先程、永禄の大飢饉によって苦境に立たされている武田信玄を討つべく上杉謙信が武田領(信州)に出兵、これが1561年に起こった第4次川中島の戦いとなったことを少し紹介させて頂きました。謙信が川中島の戦いで宿命のライバル・信玄と死闘を繰り広げたことは有名であり、筆者を含める戦国ファンの間でも心沸き立つものを感じるのですが、謙信のもう1つ有名な出兵として挙げられるのが『関東出兵(三国峠越え)』であります。
 1552年、当時の室町幕府の官職であった関東管領であった名門・上杉憲政は、関東の新興勢力でった小田原北条氏の躍進に圧迫され、憲政は上野国(現:群馬県)より、謙信の本拠地である越後国(現:新潟県)に逃れ、謙信(当時は長尾景虎)に保護されました。
 関東管領・憲政の復権するために関東へ進出する大義名分を得た謙信は、1559(永禄3)年以降、越後・上野、即ち「上越国境」にある三国山脈に属する三国峠(標高:1,636m)や清水峠(十五里尾根、標高1448m)という難所を越えて、実に1568(永禄10)年まで8回にも及ぶ関東遠征を敢行しています。
 謙信の本拠地である越後春日山城(上越市)から軍勢を率いて、徒歩や馬で遥々と上越国境を越えて上野に進出、そして小田原北条方の城砦を攻略するという事を思うだけで、億劫な筆者にとっては失神しそうな難事業でありますが、実際、戦国期の英雄の1人である謙信でさえも国境の難所を越えて関東へ出兵することは難事業であり、謙信は生涯の内で十数回も関東遠征を敢行しておきながら、大きな戦果(領地獲得)を得ることは無く、結果的に失敗に終わっているばかりでなく、謙信の有していた貴重な時間や財力や戦力を浪費することになり、上杉氏は天下取りレースに大きく遅れをとる大きな原因の1つとなっています。

 

 大きな労力や時間を使って謙信が何度も関東遠征を行った理由は何か?それは『出稼ぎ』『温暖な気候を求めた』が2つの理由が目当てであったと筆者は思っております。現在でも地方の山間地域に住まう人々(農林業従事者)が農閑期である冬期に、雪深い里から街中へ働きに出て来る、所謂『出稼ぎ』がありますが、謙信率いる越後軍が厳冬の越後から関東に出て来たのは『出稼ぎ目的』もありました。謙信、つまり上杉軍の出稼ぎとは何か?それは『略奪(乱獲り)』であります。謙信は1559年〜1568年で8回の関東遠征を行ったことは先述の通りですが、その内の7回の遠征は、晩秋(旧暦の8月〜11月)から冬に関東へ出兵し、そこで越年し、晩春〜初夏頃(3月〜4月)に本国の越後へ帰還するというパターンになっています。
 戦国期は小氷河期の影響により気候が不順であり、農作物に深刻な被害を与え、全国的に飢饉が頻発していましたが、人々(軍勢や野武士、盗賊)は生きるために「食料」を求めて、他村や町、国へ侵攻し食料や物資を強奪していました。これが『乱暴狼藉』であります。東京大学史料編纂所教授である本郷和人先生は、自著『日本史のツボ』(文春新書)内で、武士勢力が興る平安末期の世情について、『ルールなき弱肉強食』、『漫画「北斗の拳」の主人公であり、正義のヒーローであるケンシロウが登場しないような混沌とした時代』といった意味合いで説明されていますが、戦国期も殆ど北斗の拳に似た物騒かつ過酷な世情であったのは間違いなく、庶民たちは強権勢力による食料を含める物資の略奪(狼藉)に脅かされていたのであります。
 飢饉による食料難で人心が乱れ始め、食料難が原因で世間で略奪が横行し、それにより世情不安に拍車をかけることになり、各地で戦争が発生する、という負のスパイラル(悪循環)に覆われていたのが戦国期の世情でした。
 『戦国期の軍勢=略奪集団』というのは当時では一般的常識のようなものであり、「正義の軍、降魔の軍団」と称せられるような謙信率いる上杉軍もその例外ではなく、謙信たちが関東遠征を繰り返したのは亡命してきた関東管領・上杉憲政を扶けることを大義名分とした上で、北条方の領国で略奪を行っていたのです。その上杉軍の略奪行為で最も有名なのが、侵攻した際に老人や子供たちを捕えて、人身売買を行うことを謙信は容認していたことであります。筆者が思うに秩序や名誉を重んじる謙信個人は略奪・人身売買などは嫌いであったと思うのですが、多くの味方を抱える総大将・謙信としては立場上、家臣や味方する国人衆などの出稼ぎ(略奪)行為は認めざる負えなかったのではないでしょうか。何れにしても、謙信や越後軍が関東で略奪行為を働いたことにより、関東の世情不安を煽り、謙信の関東遠征やその統治に失敗したことの原因の1つとなっていると思えてならないのです。
 因みに、謙信とは違い自軍の略奪行為を病的なほど嫌ったのが織田信長であり、1568年、信長が大軍を率いて上洛した際、自軍の将兵に略奪行為を固く禁じた事(一文斬り)は有名であり、信長の後継者たる豊臣秀吉も略奪行為や人身売買を禁止した事もまた有名です。

 

 謙信が晩秋から冬にかけて、上越国境を越えて関東遠征を繰り返したもう1つの理由である『温暖な気候目当て』であります。豪雪・強風地帯でもある厳冬地帯である越後では凍死しても不思議ではありません。日本海側の越後よりは、温暖で日差しがある関東へ行った方が、謙信や越後将兵たちは心地良いものであったに違いありません。即ち『謙信たちは厳冬の越後で健康を害する(ひいては凍死)することを惧れ、関東へ日光浴に来ていた』というのが、筆者の考えであります。
 「何だ、その滑稽な考えは?」と呆れられる方も多々いらっしゃると思いますが、灯油暖房などが無く、当時唯一の燃料で貴重であった薪木や木炭を大量に用意することは簡単なことではなく、多くの人数が手っ取り早く暖を採れる方法は、日光浴しかありません。しかし、(現在の気候でも同様ですが)、冬期の日本海側は冬型気圧配置に覆われ、晴れ天気の日数の方が少なく、厳しい寒さになりますが、対して三国山脈を越えて、関東平野に出ると晴天である日が多く温暖であるので、日本海側の人間(筆者も含む)にとっては、冬の関東平野は正に「自然の暖房地」と感じられるのです。小氷河期を生きた謙信たちは尚更、冬の関東に降り注ぐ暖かい日光は、貴重なものであったに感じたことでしょう。
 以上のように、『出稼ぎ(略奪)』と『日光浴』、これが厳冬の越後で生きた謙信の関東遠征の目的であったと思えるのであります。