オリンピックに向けて世界の注目を集める東京

再来年の2020年にオリンピックの開催地として、更に人々の注目を集めている日本の首都であり、世界有数の巨大都市である東京。今年の夏季にはNHKスペシャルで東京、つまり江戸発展の歴史を取り扱った『シリーズ大江戸』が放送されたことが記憶に新しく、また同局で毎年始放送されている「正月時代劇」でも2019年の1月2日/3日の2夜連続で、徳川家康とその家臣団が当時湿地帯に覆われ、農業にも適さない関東の一寒村であった江戸を天下一の城下町にしてゆく一大プロジェクトを描いた物語・『家康江戸を建てる』(祥伝社 原作は直木賞作家の門井慶喜先生)が放送予定であり、脚本はTBSの大ヒットドラマ「陸王」「半沢直樹」を手掛けられた八津弘幸先生がご担当し、主演には家康役の市村正親さん、家康の譜代家臣で神田上水の治水工事で功績を挙げた大久保忠行(主水:もんと)役には佐々木蔵之介さん、江戸ひいて近世日本の貨幣経済制度の樹立の立役者となった金座の長・後藤庄三郎光次(初代)を演じるのは柄本佑さんといった名優さんたちを起用されている新年に相応しい大作になると思います。
 NHKの同シリーズドラマの一ファンである筆者としてみれば、今からでも上記のドラマを観るために正月を一日千秋(大仰な)の想いで待っている次第でありますが、何も今回の記事はドラマの宣伝のために執筆させて頂こうというわけではありません。現在でも日本の首都・世界有数の都市である東京、旧:江戸が、湿地帯から現在のような大発展を遂げたのか?それを(徐々にではありますが)、探ってゆきたいと思っている次第でございます。
 江戸を後年、百万都市・八百八町と称せられるほどの巨大城下町として発展させていったのは、徳川家康とその家臣団、それらの子孫である江戸幕府のお歴々、そして何よりも江戸に住していた数多の無名な農工商に従事する庶民たちであったことは皆様よくご存知の通りでございますが、江戸発展史の起源というべき家康と家臣団が初めて江戸という地を踏んだ時に見た景色というのは、正に『不毛地帯』が広がっている殆ど未開の地でありました。何故、家康たちは江戸を本拠として選んだのか?今回はその事について探ってゆきたいと思います。

徳川家康、豊臣秀吉の勧めで江戸に入る

 家康が当時の天下人・豊臣秀吉の命令によって関東に転封されたのは1590年8月であります。それまで、父祖伝来の地であった三河国(現:愛知県東部)を中心に、駿河・遠江(現:静岡県)・甲信(現:山梨県と長野県)の計5ヵ国、約150万石を領した東海地方の豊臣政権下の有力大名でありましたが、秀吉が関東の覇者・後北条氏を滅ぼした後、論功行賞で家康のそれまでの東海甲信の旧領を没収するかわりに、御北条の旧領であった関東8州約250万石を褒賞として与えました。更に秀吉は家康に対して徳川氏の本拠として、後北条氏が長年本拠とし、「西の山口、東の小田原」と称せられるほど戦国期有数の城下町として繁栄を誇っていた相模国小田原(現:神奈川県小田原市)より、更に東に位置し、品川湊を抱える武蔵国江戸に本拠を置くことを勧めました。
 家康は、秀吉の勧めを受け入れ江戸を新たな本拠として定めて、江戸に入府します。それまで江戸の地は、戦国初期の名将・太田道灌によって築城された小規模の城砦であった江戸城があり、城の真下には海が迫っている日比谷入江があり、更には(現在でも有名な)隅田川・荒川、そして当時は利根川といった大河川が江戸から江戸湾に流れ込み、大雨などが降るとそれらの河川が氾濫。江戸をはじめとする関東平野は農業や町割には不適切な湿地帯に覆われている状態でした。
 『如何にも粗相な地』『茅葺屋根の町屋が数百ばかりなり』『至る所が葦の原である』と、家康が入府した折の江戸の地を以上のように評し、とても江戸期250年を通じての天下一の城下町、ひいては現在の世界有数の巨大都市・東京の雄姿からは想像もできない劣悪な土地であったことを強調しています。しかし、江戸が本拠地としての条件が全て悪いのか?と言えば、決してそうではなく、鎌倉・室町期より関東・東海との海上交通の要衝であり、東海の有徳人(商人)の物流拠点・問屋が並ぶ南関東の経済拠点であった『品川湊』がありました。関東の経済拠点を抱えていたという点で江戸は、決して湿地帯のみで覆われてた完全なる不毛地帯でなく、十分に発展を望める土地でもあったのです。
 秀吉が家康に未発展の江戸を勧めたのは、豊臣政権下のナンバ−2の実力者である家康を強制的に江戸に移住させ、その開拓で徳川一族を経済的に疲弊させる目的があったというのが通説となっています。もしかしたら、秀吉にもそのような陰謀めいた画策もあったかもしれませんが、秀吉という人物は、それ以上に日本全国を統一し、それに伴ってそれまで地方各地で点在していた経済システムを豊臣政権下でまとめ上げ、全国均一の経済機構を創り上げることを重視しており、その政策が、秤升の統一であり、全国の米の取れ高(石高)を調べる太閤検地であります。因みに、秀吉は関東に入部する家康に対して、『必ず江戸を本拠とせよ』という命令は発しておらず、飽くまでも推薦、後は家康の判断に一任したのであります。
 「関東を発展させるには、品川湊の隣にある江戸城を本拠として、その地を切り拓くには、私が行った大坂の町割を手本とされよ」と秀吉が家康に対して親切に助言したかは知る由もないですが、秀吉は家康以外の麾下の大名たちにも本拠移転を勧めているのであります。その好例であるのが、安芸国(現:広島県西部)をの山間地であった吉田郡山城を本拠としていた毛利輝元にも、安芸国内で瀬戸内海に面し、それまでやはり湿地で未開の地であった平野の三角州の地に本拠を遷すことを勧めています。輝元はその三角州地帯に、難工事の末に新たに広島城とその城下町を築き始め、これが現在の中国地方最大の都市・広島市の発展に繋がっていることになるのですが、秀吉が自分の本拠地・大坂を中心として日本全国の経済を発展させるビジョンを持ち、地方の城下町を活性化させることを望んだデベロッパーの側面も持ち合わせていたので、家康に江戸を勧めたのは、徳川氏を疲弊させるという陰謀的要素のみではなかったと筆者は思えてならないのであります。家康も秀吉の経済発展方針に共感できる部分があったので、自らも江戸を新たな本拠として定める決心をしたと思えるのです。

 

 秀吉が家康に江戸を勧めることになる経緯はどのようなものであったのか?それは以下の通りのように思い至るのであります。

 

 数々の城下町建設・関所撤廃・インフラ整備・楽市楽座・商都把握などの商業政策などを大々的に敢行し、莫大な財源を元手として天下の覇者となった織田信長が1582年、家臣・明智光秀の謀反「本能寺の変」によって横死した後、天下の覇権は光秀を討った羽柴秀吉によって握られることになりました。
 秀吉も旧主・信長に倣い、城下町建設やインフラ整備によって更なる経済活性化に着手した大物でありましたが、その筆頭的好例が大坂城築城と大坂城下町建設でした。それまで大坂の地は、北に天満川、西に大坂湾、東には低湿地に囲まれる天然の要害かつ水上交通の要衝でもあり、唯一台地を成している上町台地の北端には信長も苦しめた一向一揆の総本山・石山本願寺があり、その周辺には寺内町が形成されていた先進地でした。
 秀吉は石山本願寺跡地(上町台地)に巨城・大坂城を築くと同時に、その四方に水堀を開削しました。この水堀開削の目的は勿論、大坂城の防禦用としていましたが、もう1つの重要な目的として物資をより多く運搬するための『水路輸送』もあり、秀吉は以前、強大な勢力を誇った一向一揆衆の本拠地として発展していた大坂を、天下統一の本拠地として定め、城下町や水路などのインフラ整備を行って、旧主・信長以上の勢力を付け、西国などを平定し、僅か信長死後の18年後の1590年には、約100年にも渡り関東の覇者であった後北条氏を小田原城で滅ぼすことによって天下を統一したのであります。

 

 今記事では家康と徳川の首都となる江戸の関係を記述させて頂くのに、何故、家康のライバル関係にある秀吉と首都・大坂のことを前置きとして長く書いたかと言うと、実は、後の江戸繁栄の礎となる徳川の江戸城下町建設の手法は、『家康が秀吉の大坂の町づくりを手本としたから』であります。大坂と江戸は、『平坦で湿地帯』・『大きな河川がある』『湾(海)に近い』という地理的環境が酷似しているのであります。本来築城や町割といった土木の天才であった秀吉をはじめ黒田官兵衛や加藤清正、藤堂高虎などの土木技術に優れた才能を持っていた家臣を多く抱えていた豊臣氏は、湿地の大坂を本拠と定めて、水はけが悪い湿地である難点を逆手にとって水堀(水路)を開削し、物流経済の活性化を図り、江戸期に「天下の台所」と称せられるほどの経済の中心地となる大坂繁栄の礎を築くことに成功しました。
 大坂の成功例に倣ったのが、関東の江戸を本拠とした家康でした。家康は、信長・秀吉に比べ独創性やカリスマ性に乏しい反面、諸事物学び(物真似)の才人であったことは有名でありますが、家康は江戸の町割も大坂の町づくりを見本として、家康は江戸に入府した早々の1590年7月、神田山などを削り、湿地帯の埋立作業を実施し城下町を整える一方で、翌月には江戸城改築の物資を運搬の円滑化させるための水路「道三堀」(1909年に埋立)を開削、続けて下総国行徳(現:千葉県市川市一部および浦安市)で製造される塩を円滑に運び入れるために旧中川と隅田川の間に直線の水路「小名木川」の開削工事を行い、大坂のように水路を開削することにより、江戸の物流活性化を図っています。
 以上のように、家康の江戸建設は、先輩である秀吉の大坂建設の先例を上手く学び取って行ったものが多く、家康や徳川家臣団のみの独自アイデアや実力で成し遂げたものではないのであります。しかし、江戸を本拠として進めた秀吉とその案を受け入れた家康の誤算?もしそれが正解であれば家康にとっては嬉しい誤算となるのですが、家康が秀吉死後、豊臣氏を差し置き、天下人となったことにより、江戸が政治の中心地となって更なる発展を遂げ、関東おろか大坂を追い抜き全国の中心地となり、遂には江戸中期には既に人口100万を擁する当時世界トップクラスの巨大都市まで成長することになるのであります。
 『家康も(本多)正信も、江戸が後に世界有数の都市になることは夢にも思わなかった』という意味合いの文章を司馬遼太郎先生が長編歴史小説『関ヶ原』で書かれていましたが、家康をはじめとする家臣団は、関ヶ原合戦後、天下の9割近くを掌中に治めても様々な難関をクリアして江戸の発展に尽力してゆくことになります。その第一関門というべき問題は、人間が生きてゆくには欠かせない『飲料水』の確保でした。家康たちはどのように飲料水確保の問題を解決していったのか?次回はそのことについて探ってゆきたいと思います。