「鬼」と呼ばれた吉川氏を支えたもの

安芸国吉田荘(現:広島県安芸高田市)を治める一国人領主から一代で戦国期を代表する戦国大名となった毛利元就ついての記事です。元就が制覇した山陰山陽(中国地方)は、戦国期以前の古代よりの日本最大の海上交通および交易の要衝であった瀬戸内海を擁し、一方の山陰側では、国内最大級の製鉄産業地帯および当時世界規模の銀産出量を誇っていた「石見銀山」が存在したという、「海の利権」と「山の宝庫」の両方を擁した『国内有数の好地』であったことは、前々回の記事で紹介させて頂き、そして前回では、それまで一地方国人衆であった元就が、自身の三男・隆景を養子として送り込み瀬戸内海に接する水軍国人衆・小早川氏を乗っ取り、同氏が有していた「海上利権」と芸予諸島を根城として、瀬戸内海航路とそこから産まれる莫大な富(船の通行税・大陸交易ルートなど)を一手に抑えていた「村上水軍への伝手(人脈)」も手に入れ、この元就が毛利氏勢力拡大のために強引に海の小早川を乗っ取ったことが、「厳島の戦い」での勝利に繋がってゆき、毛利氏が後々の日本史に重要な地位を占めることになってゆくことを紹介させて頂きましたが、今回の記事では元就が次男・元春を使い、鉄資源と木材という「山の宝庫」を有していた吉川氏を乗っ取り、更なる勢力飛躍に繋がっていったことを紹介させて頂きたいと思います。

 

 戦国期の安芸国内に割拠していた毛利氏・小早川・熊谷氏などの殆どの中小国人領主たちの元を辿れば、鎌倉期に勃興した「関東(東国)武士団」を先祖としており、毛利は源頼朝のブレーンとして鎌倉幕府の創設に多大な功績を残した大江広元を先祖としており、小早川は頼朝挙兵以来の重鎮・土肥実平を祖とし、熊谷氏は一騎当千の兵(つわもの)として有名な猛将・熊谷直実と同じ一族が祖となっていますが、吉川氏も元は東国、駿河国入江荘にある吉川郷(現:静岡県清水区)から興った武士であり、鎌倉幕府に属し、承久の乱(1221年)などで戦功を挙げ、播磨国(現:兵庫県南部)や安芸国大朝荘(現:広島県北広島町)などの所領を幕府から与えられて以降、安芸国が吉川宗家の本拠地となり、応仁の乱では「吉川氏中興の英君」と謳われた文武両道の名将・吉川経基(11代当主)が大活躍、経基とその吉川兵の精強ぶりが全国に轟き、「鬼吉川」「俎板吉川」と畏怖され、経基は娘を山陰の雄・尼子経久を嫁がせ婚姻関係を結び、吉川氏の勢力は安芸国内でもより大きくなりました。後に毛利氏の支配下に組み込まれ、関ヶ原合戦後に毛利氏が中国の覇者から転落し、周防・長門(現:山口県)の2ヶ国の大名(長州藩)と成り果てた際、吉川氏も毛利氏に従って名勝・錦帯橋で有名な岩国という小藩に押し込められる吉川氏ですが、戦国期当時は毛利氏を上回る国人領主でした。この吉川氏の精強ぶり(軍事力)を支えていたのが、(何度も記述させて頂いたように)、領内から産出される『木材』『鉄』という正しく『山の宝庫』でありました。

吉川氏を乗っ取り、「山の富=鉄資源」を手に入れた元就

 吉川氏の格下であった元就、というより毛利氏が吉川氏と深い繋がりを持つようになったのは、吉川氏13代当主・元経(経基の嫡孫)が、元就の異母妹・松姫を娶ったことが嚆矢となっており、後年の1517年頃(諸説あり)に当時、未だ毛利氏当主にもなっていない毛利庶流の元就に、元経の妹(妙玖)が正室として入ったことにより、毛利氏と吉川氏の関係はより深まることになりました。因みに、元就と妙玖の間に、武将としての人格・能力に傑出した隆元・元春・隆景という毛利三兄弟が誕生したのはあまりにも有名な事実でありますが、一方、元経と松姫の間に生まれた嫡男・千法師、つまり元就の甥が成人して吉川興経(14代当主)となり、大内・尼子との間を反覆常無き行動、叔父である吉川経世(元経の弟)といった一門衆や譜代重臣を軽視し、新参者を寵愛し過ぎて吉川氏家中を乱したために、家臣たちの信望を失い、その隙を吉川氏の有する財力を狙う元就に付け入れられ、吉川氏を乗っ取られた挙句、非業の最期を遂げています。

 

 吉川氏が本貫としていたのは山陰の石見国益田(現:島根県益田氏)などに隣接する大朝庄新庄(居城:小倉山城)であり、現在の地名で言えば広島県山県郡北広島町、合併する以前の町名では「大朝」・「芸北」・「千代田」・「豊平」一帯になります。余談ですが、有名な福澤諭吉の朋友として、諭吉と共に日本近代教育の発展に大きく貢献した古川正雄(旧名:古川節蔵、慶應義塾初代塾長)は北広島町の出身者(芸北町川小田)であります。
 現在では北広島町は、農林業やスキー場などの観光業を主要産業する地域ですが、戦国期には、石炭や石油がない当時においては唯一のエネルギー源であった『木材』を豊富に産出し、その木材(木炭)によって生産される『鉄』の一大産地でした。
 特に鉄に至っては、武具・農具を製作するに絶対不可欠な物資であるのは皆様よくご存知なことでありますが、戦国期当時の日本国内の主要鉄生産地であったのは中国地方であり、その中でも3カ所のみの「備前国(現:岡山県東部)」「出雲国(現:島根県東部)」、そして安芸国北部、つまり吉川氏の本貫地の「大朝」「豊平」(北広島町)でした。事実、旧豊平町を中心に(判明しているだけで)200を超える製鉄炉の跡地が発見されており、元就在世時の吉川氏領内は『日本国内指折りの鉄生産地であった』ことが判明しております。
 戦国大名に限らず、当時を生きる人々にとって必要であった鉄という生命線を握っていたことにより、全国に高価で鉄を売りさばき強固な経済力を身に付けていった吉川氏。山間に拠る国人領主ながらも「鬼吉川」と呼ばれるほどの有力国人となった主因は『鉄』にあったのであります。 

 

 吉川氏14代当主である興経は、父・元経が若死し(1522年)、当時若干4歳であった興経が祖父の国経の後見を受けて吉川氏の当主となりました。1531年にその国経も88歳で死去し、興経は名実共に当主となったのですが、その頃、叔父にあたる毛利元就は、西国の雄・大内氏との関係をより緊密なものとすると同時に、長年敵対関係であった国人領主・宍戸氏と和睦・婚姻関係を締結したり、兄・興元の正室の実家であった有力国人領主・高橋氏などを討滅するなど安芸国内で毛利氏勢力を着々と伸ばしている時期でした。
 興経は、強力な財政基盤で支えられている強豪・鬼吉川の名に恥じぬ武勇に優れた猛将でありましたが、先述のように、当時中国地方の強豪・大内氏(山陽)と尼子氏(山陰)の間を、戦況に応じて反覆常無く鞍替えをするという戦国武将として必要な政略の能力に欠けている人物であり、他勢力のみならず吉川一門・家臣衆からも「吉川興経は信用できない」というレッテルを貼られてしまいます。元就も興経同様に戦況に応じて大内と尼子の間を往き来しているのですが、尼子から大内に鞍替えした後は、1555年の厳島合戦までは大内方の配下国人衆として一貫しています。興経は目先のみで元就以上の鞍替えを何度も行っているのであります。その変身ぶりは、後年の真田昌幸を彷彿させるほどであります。
 1540年、尼子氏は安芸国内で勢力を伸張している元就の本拠地・吉田郡山城を3万の大軍で攻略を開始します。これが「吉田郡山城の戦い」であり、小勢で守り手であった元就が郡山城に籠城し、巧妙に戦って最終的に大内氏の援軍を得て尼子氏を撃退。元就は安芸国人領主のリーダーの地位を築き上げ、後の飛躍につながってゆくことになります。
 当時、尼子方に属していた興経は尼子軍の一員として親類にあたるはずの元就を攻撃していることになるのですが、戦乱の世では親類が敵味方別れて戦うというのは一般的であることなので、特筆ことではないのでありますが、問題は戦後の興経の去就であります。
 興経は吉田郡山城の戦いで敗北を喫し、勢力を大きく減退させた尼子氏を早々に見限り、勝利によって意気軒昂である大内氏に寝返ります。そして、1542年、今度は大内氏が元就・興経・小早川氏などの安芸国人衆、石見国人衆など味方連合の大軍を率いて、尼子氏の本拠である月山富田城(現:島根県安来市)の攻略を開始しますが、難攻不落の天下の名城と謳われた富田城を攻略することは困難を極め、大内軍の士気は低下してゆきます。大内軍苦戦と見るや興経は、合戦の最中に堂々と尼子に寝返りを行います。この興経の寝返りによって大内遠征軍は崩壊し、それに従軍していた元就たち国人衆は多くの犠牲を払いながらも各々の領地に命からがら逃げ帰る羽目になってしまいます。因みにこの退却時に瀬戸内の水軍と所縁の深い国人領主・小早川正平が戦死し、小早川氏は受難の時を迎えるようになり、最終的に元就とその三男・隆景によって乗っ取られてしまうことになります。見方によっては、興経の裏切り行為のお蔭によって結果的に元就は海の小早川氏を手中に収めることができたことになるのですが、裏切り行為ばかり繰り返す興経の悪評は遂に頂点に達しました。恐らく紙一重で助かった元就も興経には深い恨みを抱いたに違いありません。
1545年、興経の叔母に当たり元就の正室であった妙玖が47歳で死去。この女性に関しては本名も墓所も不明となっている多くの謎に包まれている人物ですが、妙玖を主人公として扱った永井路子先生の小説『山霧 毛利元就の妻』(文春文庫)があり、快活な性格の持ち主である彼女(作品中では美伊の方)が、顔も知らない小豪族であり何事にも慎重居士である元就に政略結婚によって嫁いだにも関わらず、夫と固い愛情と絆で結ばれ、2人と共に小勢力の悲哀など味わいながらも戦乱の世を生き抜いてゆくというのがあらすじとなっている読んでいて非常に面白い作品となっています。
 この小説のキーポイントとして挙げられるのは、政略結婚(家同士の意向)によって結ばれたにも関わらず、「深い夫婦愛によって結ばれた美伊の方(妙玖)と元就の群像劇」となっていますが、史実でも元就は彼女の事を深く愛し信頼していたのは確かであり、妙玖死後に元就は息子・隆元宛の書状内で、『妙玖のことをのみしのび候』(妙玖のことを思い出されて寂しく思う)『亡き妻ことばかり思ってしまう』という、他人を謀略によって貶め大毛利を築いた戦国一の知略家である元就の「人間臭さ=愛嬌」が感じられる一文を書いている上、高名な逸話「三本の矢」の原典となった元就が隆元・元春・隆景3兄弟に出した訓戒『三子教訓状』の第7条目に、『亡き母・妙玖に対する皆の供養・追善を怠らないように』という意味合いを記している点を見てみても、元就が自分より早く先立ってしまった正室・妙玖に対して深い愛情を持っていたことがわかります。
 元就が、豊富な鉄と木材という山の富を抑えている妙玖の実家でもある吉川氏に対して苛烈で陰険な乗っ取り謀略を実行するのは妙玖死から2年後の1547年からであります。それまで、上記の興経の裏切りによって幾度も窮地に追い込まれながらも戦国期に生きる人物としては温厚な性格であった元就は、愛するカミさんの実家、その当主である興経に対しては寛容な態度を採っていました。
 先述のように興経は、度々の裏切り行為、一門衆や譜代家臣などを蔑ろにし新参の家臣・大塩右衛門などを偏重したために吉川家中は分裂、興経を当主として戴いている鬼吉川は完全統御不能となっている有様でした。一門衆筆頭格であり、興経の叔父(妙玖の弟)にあたる吉川経世、譜代の森脇祐有たちは吉川氏の前途を憂い、興経を当主から引退させることを画策。即ち経世たちは、元就に同じ吉川氏の血を引き、弱冠10歳で初陣(吉田郡山城の戦い)を飾り武勇に秀でた元就次男・元春を吉川氏の当主として迎え入れることを要請したのであります。
 元就は当初、元春を吉川氏に送ることに積極的ではなかったと言われていますが、経世たちの強い願いにより最終的には受諾し、元春を吉川氏に送り込むことに決めました。一度決断した元就は徹底的であります。1547年、経世たち吉川の有力者たちと共謀し、興経を強制的に隠居させ当主の座から引きずり降ろし、興経に嫡男・千法師がいるにも関わらず元春を興経の養子とさせ、元春を吉川氏の当主とさせます。1550年、興経と千法師を吉川氏の本貫である大朝などではなく、毛利氏と新当主となった元春の正室(新庄局)の実家・熊谷氏の影響下にある安芸深川(現:広島市安佐北区)に隠居させた上、同年9月、将来の禍根を断つために元就は、盟友の熊谷氏や天野氏を遣って興経父子を殺害。これにより山の富を抑え、山陰に強い影響力を持つ吉川氏は毛利氏の支配下に入ることになりました。
 元就が元春を使って山の吉川氏を乗っ取った同じ1550年、元就は瀬戸内海に拠点に置く有力国人領主・小早川氏の分家筋の竹原小早川氏の当主となっていた元就三男・隆景を使って本家筋である沼田小早川氏も謀略によって反対勢力を粛清した上、乗っ取りに成功。
 「吉川・小早川」という毛利氏の飛躍を支える有名な『毛利両川』が誕生することになったのですが、それは有力な水軍を擁し、海上交通の要衝を抑えた「海の利権」(小早川氏)と当時の最重要資源である鉄と木材という「山の富」(吉川氏)という『2大経済基盤』を毛利元就が手中にした瞬間でもありました。
 吉川・小早川の両氏を支配下に治めた元就が、1555年、それまで毛利氏の従属先であった西国の雄・大内氏の実力者・陶晴賢を厳島合戦で撃破、2年後の1557年、大内氏も滅ぼし、毛利氏は安芸・備後、周防・長門(現在でいう広島・山口両県)の4カ国を治める当時を代表する有力戦国大名と成長しました。そうなると、一方の出雲を中心に山陰地方の鉄資源と日本海航路の要衝を抑えて強大な勢力を誇っている尼子氏との直接対決がより顕著になってくるようになります。そして、毛利・尼子の両氏は当時、日本国内有数、否、世界有数の鉱石(お宝)の領有権を巡って山陰で激戦を繰り広げることになります。その鉱石こそ『銀(石見銀山)』であります。

 

 次回の記事では、山陽の瀬戸内海に強力な経済基盤を置く毛利氏、山陰の鉄と日本海交易を力の源泉としている尼子氏。この2大勢力が争った『石見銀山』関連を順繰りに紹介させて頂きたいと思っております。