戦国最強・武田信玄の凄さ

 戦国期には、織田信長・上杉謙信・北条氏康・毛利元就などいった数多の英雄が各地方に勢力を誇っていました。その群雄の中でも、甲信地方に一大勢力となった『武田信玄』は特に天下に名を馳せた英雄であり、信長、徳川家康といった天下の覇者にも畏怖されました。
 信玄は、我の強い自身の家臣団を生涯をかけ苦心して1つにまとめ上げ、合戦場では大将・信玄が号令の下、軍勢が一体となって組織的かつ有効的に動ける天下一の最強軍団・武田軍を完成させました。筆者が私淑する歴史学者であり国際政治学者でもいらっしゃる小谷賢先生がNHKの歴史教養番組『英雄たちの選択』にご出演されていた折りに、信玄がつくりあげた武田軍を以下のように評しておられます。

 

 (小谷)『信玄は指揮統率能力が凄く高かったと思います。後の明治時代に勝海舟も言っているのですけど、海舟が西洋流の規律ある兵法を学んだ時、「何だ。これは武田の兵術とかわらんじゃないか。」ようなことを300年後に言っているわけですよ。ですから、それほど武田軍の指揮統率というのは非常に有名であったと思います。戦国時代の戦いといのは、ややもすれば子供のサッカーみたいになるわけですよ。要はみんなボールのところに集まり、個人プレーをやるんですよ。手柄だ!と思えば、みんなそこへ集まってしまうんです。そういう時代に武田軍というのは、要は「フォーメーションサッカー」やるんですよ。戦術をきちんとして。それはやっぱり強いですよ。』(「大敗北が家康を天下人にした 知られざる三方ヶ原の戦い」より)

 

 同番組の司会者をしておられる歴史学者・磯田道史先生も、上記の小谷先生のご発言を受けられた後、以下のように仰っています。

 

 (磯田)『2人の天下人、信長も信玄との決戦を避ける。とにかく避ける。それで家康も居城・浜松城にいて、目と鼻の先にある城(筆者注:二俣城)をですよ、山を越え遠く、甲斐国(現:山梨県)からやって来る信玄に攻められているのに、救援出来ないんです。「この2人の天下人が手も足も出ない事実をもってして、信玄がいかに強かったというのが分かりますね。」』(「同上より」)

 

 歴史学者の小谷・磯田両先生も認められているほど軍事面で天下に無類の強さを発揮した武田信玄と武田軍団。それほどの英雄が何故、結果的に信長や家康の後塵を拝して、天下の覇者になれなかったのか?それは一言で述べれば、『信玄が不運であった』としか言いようありません。一言に「不運」と言っても、信玄には事を成す(つまり天下に覇を唱える)に必要な「天の時・地の利・人の和(即ち『天地人』)」の内、「天の時」と「地の利」にどうも恵まれなかったのであります。
 信玄が信長たちに比べるとあまりにも年上であった(信長より13歳、家康にいたっては20歳も年上)というタイミングの悪さの「天の時が味方しなかった」のもあると思いますが、やはり信玄の天下への飛翔へ多いな足枷となった最大の原因は、『地の不利』にあったでしょう。信玄が味わった地の不利について、紹介させて頂きたいと思います。
 余談ですが、先述の『天地人』についてですが、近年のNHK大河ドラマのタイトルにもなって話題になったと思います。本来この言葉、中国思想・孟子の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず。(原文:天時不如地利、地利不如人和。)」が出典となっています。そして、当時には戦国武将には珍しく読書人で教養が深かったと言われている信玄の宿敵・上杉謙信が、この孟子の言葉を知っており、「天下を制するものは、天の時・地の利・人の和、即ち天地人を備えていなければならない」と語ったそうです。

山国の甲斐国に誕生したことが信玄のネックになった

 武田信玄は、皆様よくご存知の通り、「四方を山々に囲まれた」甲斐国、現在の山梨県を本拠とした戦国大名であります。現在でも山梨では信玄への愛敬の念が強く、地元の人たちから「信玄公」と尊称されているほどであります。
 現在の山梨県は、首都・東京都に隣接する県である上、首都圏へ通じる中央高速道路や甲州街道(国道20号線)が通じているので、政治経済の中心地である東京に数時間で行き来できる利便性の良い県でありますが、信玄が生きていた戦国期の山梨、甲斐国は当時の政治経済の中心地である京都(畿内)から東へ遠く離れている上、人・物資の往来には不向きな山々に囲まれた国でありました。
 山々に囲まれ、平野部が極めて少なく当時の経済基盤であった農作物・米を生産する耕作面積が少ない経済力に乏しい甲斐国であったにも関わらず、国内には多くの国人領主(小山田氏や穴山氏、跡部氏など)がひしめき合い、互いに僅かな土地を巡って諍いを起こしていました。
 上記のような甲斐国を統治する守護大名であった武田氏は戦国初期に勢力が衰えると、配下の国人領主の反発や周辺勢力の侵入などにより窮地に立たされますが、猛将として名高い信玄の父である信虎(武田氏18代当主)が奮戦、国内の有力豪族である小山田氏・跡部氏・飯富氏・大井氏などを武田氏に屈服させ、ほぼ甲斐国を統一。戦国大名・武田氏として蘇生させました。後々の信玄雄飛の礎は、信虎が築いたものであります。
 信虎は、駿河国(現:静岡県東部)の今川氏とは婚姻同盟を締結し、一方では積極的に南方の相模国(現:神奈川県一帯)の強敵・小田原北条氏と戦いつつも、北方の信濃国(現:長野県)などへ外征を行い、武田氏の領土拡張を試みます。しかし、この積極策が裏目に出てしまい、度重なる合戦により甲斐国内が疲弊し、自身の家臣団の反発を招き、遂には家臣たちのクーデターによって縁戚(信虎の娘の嫁ぎ先)である駿河の今川氏の下へ追放されました。そして、家臣たちに新たな武田氏当主として祀り上げられたのが、信虎の嫡男・晴信、これが信玄であります。よく物語では、晴信が、父・信虎の強引策によって疲弊していく甲斐国や家臣領民を憂いて、重臣たちを説得して味方に付けて信虎を追放したという、晴信主導のクーデターとなっていますが、事実は重臣たちが信虎を追って、晴信を当主としたというものであります。武田氏当主になりたての晴信、のちの信玄は家臣たちよって仕立て上げられた大名であり、家臣たちに対して頭が上がらない存在でした。

 

 度重なる合戦(軍役)で家臣領民が疲弊してしまい、それが結果的に信虎が追放される憂き目にあってしまうということを見てみても、信玄が拠った甲斐国というのは、やはり経済的に脆弱であったとうことを証明しています。元来、山々に囲まれ耕作可能な平坦地が少ない甲斐国の中で、信玄が本拠としていたのは国内一の平坦地・甲府盆地ですが、その盆地も「笛吹川」と「釜無川」の2大河川が度々氾濫を起こし、耕地や農産物に甚大な被害をもたらしており、甲斐国の疲弊に拍車をかけていました。信玄は外征という積極策を採る前に、先ず甲斐国を立て直すための内政に着手しなければいけない状態でした。
 信玄は実際、河川の氾濫を防ぐ有名な「信玄堤」という堤防を造るなど内政に非凡な才能を発揮し、多大な功績を残していますが、一方で信玄晩年の大敵となる織田信長は、尾張国(現:愛知県西部)という当時でも有数な穀倉地帯(濃尾平野)と「熱田」「津島」といった良港(財源)を抱えている本拠を父祖から受け継ぎ、桶狭間の合戦で今川義元を討ち取った後から、積極的に何度も美濃国(現:岐阜県南部)を攻略するための外征(積極策)を行っており、信長の本拠であった尾張国はそれに耐えれるほどの強固な経済力を持っていたということであります。信長は、信玄のように先ず国内を整える内政に拘束されることなく、迅速かつ積極的に外征を行えたという「経済的利点、つまり『地の利』」があったのであります。それに比べ、信玄は信長に比べ遥かに『地の不利を味わった』のは事実であります。
 外征面でも同様であります。信長が尾張から出て、攻略した美濃・伊勢国(現:三重県)や近江国(現:滋賀県)の全てが、日本有数の穀倉地帯かつ四方が平野で拓けた商業流通が発展していた地帯であります。その反面、漸く国内を整え、父の代からの方針・信濃攻略に乗り出す信玄ですが、その信濃国も甲斐と同じく、四方を山に囲まれ平野部が少ない農業(つまり経済)後進地帯でした。長い年月と財力・兵力を費やし、信濃国を統一した信玄を待ち構えていたのが、北の越後国(現:新潟県)の名将・上杉謙信でした。
 武田の侵攻に敗れた信濃国の村上義清などの国人領主たちが謙信に助力を要請。謙信はこれに応じ、信玄が漸く手に入れた信濃国を奪還するべく、謙信は信玄に対して戦いを挑んできました。これが有名な「川中島の戦い」となり、信玄vs謙信という当時の天下に双璧を成す名将同士の名勝負として現在でも語り草となっているのですが、謙信との戦いに費やしてしまった年月と財力、そして人材の消耗(実弟・信繁の戦死など)は信玄にとっては大きな負担となってしまいました。
 信玄にしてみれば、信濃という広いが生産力が決して高くない土地を制してみたが、その北に謙信という虎の如き猛者がいて、向こうから襲い掛かってきたので、信濃を防衛しなければいけなくなった。という感じです。北に謙信という信玄からしてみれば曲者を相手しているだけでも大変であるのに、更に甲斐の南にも駿河の今川義元、相模の北条氏康といった当時を代表する強豪の存在が信玄を常に脅かしていたいう情勢でした。信玄の甲斐信濃は、四方を山々に取り囲まれているばかりでなく、北(謙信)と南方(義元・氏康)の二方面からも強豪に取り囲まれているという、更なる「地の不利」を味わい続けていたのであります。

信玄が治めた領国の経済的脆さ

 信玄が味わった決定的な「地の不利」は、甲斐・信濃には『海』が無い。とうことであります。宿敵の謙信や信長は、海路を通じて交易を行い莫大な富や鉄砲を得ていましたが、海(海路)を持たない信玄には海上交易は不可能であります。また海から得られる海産物、特に人間が生きてくために必要不可欠な『塩』を独自に入手することも不可能であります。これは有名な話で、皆様よくご存知だと思いますが、義元が桶狭間の戦いで戦死後の駿河今川氏は著しく弱体化し、その虚を突いて駿河侵攻を企てた信玄に対して今川氏と北条氏が「塩留め」という経済制裁を加え、信玄は経済的窮地に立たされています。この時は義侠心に厚い越後の謙信が甲斐信濃の領民の窮状を憐れみ塩留めを実施しなかったので、結果的に信玄は宿敵であるはずの謙信に救われたのです。これが由来となった故事成語が「敵に塩を送る」ですが、実際は、謙信が信玄に対して塩留めを敢行しなかったのは、謙信の義侠心を褒め称える美談のようなものではなく、塩が不足している甲信地方に塩を持ってゆけば高く売れ、大きな利益が出ると謙信が目論んだからというのが事実のようです。
 実は謙信も商業主義者で有名な信長に引けを取らないほどの優れた経済センス(商才)の持ち主であり、当時木綿がまだ貴重であり、衣類の主繊維であったのは、越後の特産であった「青苧(あおそ)」でした。謙信はこの青苧を独占販売を実施し、莫大な富を入手していました。また越後国内の直江津・柏崎の良港を整備し、そこから得られる収入(関税)も莫大なものであったと言われています。以上のように商業よって利益を得ていた謙信にとっては、海を持たない甲信の信玄に対して塩を留めなかったのは、塩で大きな利潤を得ようしたビジネスであったのです。それでも、この謙信の打算は、信玄にとっては日照りの時の雨の如く、非常に有難いものであったようで、後に謙信に返礼として太刀を送って感謝の意を示しています。
 上記のように、結果的に宿敵に救ってもらわなければならないほど、信玄の領土であった海を有していない甲斐信濃は一旦、塩留め/経済制裁を受けると忽ち窮地に陥るという、「経済封鎖に弱い面も持っていました。これも信玄が味わった「地の不利」であります。
 「往来」「情勢」「経済的」といった三拍子の地の不利を生涯味わい続けた信玄ですが、そのハンディを乗り越えて、信玄晩年期(1570年前半)には甲斐信濃の2ヶ国を中心に、駿河・西上野国(現:群馬県西部)・飛騨国(現:岐阜県北部)の一部などの広大な領域、約130万石を有する群雄へと武田氏は成長し、東海の家康や当時中央で覇を唱えていた信長に一目も二目も置かれる脅威的存在になっています。
 天下取りレースで、信長の後塵を拝した信玄ですが、それは信長が運良く天下有数の「地の利」を得ており、信玄が天下有数の「地の不利」を味わい続けたことの結果であり、信長のスタートラインは、信玄よりも遥かに優位な場所にあったという一点のみが信長が信玄に勝ったという結果でした。決して信玄の器量が信長に劣っていたのではないのです。寧ろ、貧国・甲斐一国というスタートラインから出発して、優れた内政能力により領国経営し、天下随一の最強軍団をつくり上げたという戦国大名としての能力面では、信玄は信長を遥かに凌駕しています。事実、信長自身もそれを痛感しており、信玄を畏怖し続け、信玄との直接対決を避け続けています。
 天下の覇者に恐れなれがも、天下を手にできなかった戦国期の偉大な英雄として謳われる武田信玄。それは「地の不利」によって、「天の時」を逸してしまった悲劇要素を大いに持った悲劇の英雄でもあったのです。どうも信玄とは、中国三国時代で、脆弱かつ急峻な山々に囲まれた王朝・蜀漢を率いて奮闘し、最期は戦場で病没した悲劇の天才軍師として名高い諸葛亮(孔明)を思わせます。孔明も信玄と同じく「地の不利」に苦杯を舐め続け、天の時を失った悲劇の英雄の1人であるので。