徳川家康たちが直面した水問題

 1590年、天下人・豊臣秀吉が、長年関東地方の覇者として君臨していた後北条氏を小田原攻めで滅ぼした後、秀吉は南関東全域と北関東の一部という広大な領地、俗に云う関八州(石高にして250万石)を、当時東海と甲信地方の有力大名(約150万石)であった徳川家康に転封させた上、その本拠を殆ど広大な湿地帯で覆わていた武蔵国江戸(現:東京都23区一帯)に置くこと、そして同地を、自分の本拠にして経済流通の中心地になっていた摂津国大坂(現:大阪府大阪市一帯)の見本として、開拓・町割(城下町建設)を勧めました。
 結果的に家康と徳川家臣団は、上記の秀吉の勧めに応じる形で湿地帯であった江戸に入府し、町割を開始。家康は譜代家臣・榊原康政を関東総奉行(後の関東郡代)とし、その輔弼して奉行職に能臣・本多正信を任命し、江戸開発の監督させます。
 康政たちは、徳川家臣団を総動員し、江戸城の改築および武家町を建築。次いで江戸に速やかに多くの物資などを搬入できるように小名木川・道三堀といった水路を開削。その普請で輩出した土で湿地帯を埋め立て、町屋を拓いていく大普請を行いました。
 歴史学者である磯田道史先生が司会を務められている『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム 木曜20時放送)で、家康の江戸入府について取り扱った回に、磯田先生は以下のように仰っておられます。

 

 『足軽部隊は戦争が無いときは土木工事に動員されるので、戦争と同じで工事中は臨戦態勢になると同じなので、非常に軍団が鍛えられるし、命令もよく聞くようになってゆくんですね。だから(10年後に起こる)関ヶ原の練習は毎日の江戸普請によって行われていたのです。』(シリーズ政権誕生の地・「なぜ家康は江戸を選んだのか?」より)

 

 以上のように磯田先生は、家康たちが断行した江戸大開拓が、更に徳川家臣団を精強にすることになり、後の徳川政権樹立の原動力の1つになったことを仰っています。

 

 上記の磯田先生のお言葉を拝借して、徳川家臣団を土木工事に総動員して、より鍛え上げた現場監督は、先述のように榊原康政であります。康政と言えば、若年の頃より主君・家康に従い、数多の戦場で大功を挙げ、後に「徳川四天王」と謳われるほどの「猛将中の猛将」というイメージが強いですが、江戸入府当初の関東総奉行として、官僚である本多正信(康政と正信は犬猿の仲であったことは有名ですが)たちを監督し、大きな問題無く江戸開拓に尽力、後の江戸繁栄の原型を造り上げた一方で、自分の新領国となった上野国館林(現:群馬県館林市)10万石で街道整備および利根川治水工事などの内政に務めるほど能力も発揮していますので、決して武芸一辺倒の猪武者ではなかったことがわかります。

 

 家康は、家臣を適材適所で配置し、江戸城の改築および城下町の町割に邁進していったのですが、何よりも苦心したことは、生活には欠かせない『生活用水(飲料水)の確保』でありました。江戸期には水運、そして世界有数の水路流通および水道都市になる江戸ですが、家康入府当時の江戸は、地表上の湿地および地下水には海水が混ざった飲料水には適さない汚水が溢れた地であったのです。当時の江戸には関東最大の河川・利根川をはじめ、隅田川や荒川もありましたが、現在のように吸水ポンプも無い当時では、綺麗な水質である河川上流部の河水は汲み上げることは不可能である上、その下流(江戸城付近)の河水も海水が混ざっており、飲み水には使用できませんでした。家康入府当初の江戸の水環境は最悪であったのです。まさか日々の飲料水にも事欠いた江戸が、江戸中期に100万都市になり、現在でも世界有数の大都市になるとは家康本人は夢にも思わなかった事でしょう。
 以上のように、水に関しては最悪な地理的環境の中で、家康たちはどのようにして生活用水を確保していったのか?今回は表題通り、家康と家臣団たちが奮闘した飲料水確保について探ってゆきたいと思います。

東京赤坂にある「赤坂溜池」のという地名の由来

 筆者が、(大袈裟に言えば中国儒教の孟子が孔子を敬ったように)、私淑する歴史家の司馬遼太郎先生がライフワークとして執筆されていた紀行シリーズ『街道をゆく』の33冊目に当たる『赤坂散歩』の文中で、家康たち(のちの江戸幕府)が、入府(1590年)当時、生活用水に恵まれない湿地帯であった江戸の地を、苦心して水の確保に努めたことについて記述し、また幕府瓦解後、江戸改め東京に拠点を置いた明治新政府と明治三英傑の1人であり、内務卿(事実上の首相)であった大久保利通についても触れています。
 司馬先生は同書の文中で、大久保の事を『格調高い人格・見識・行動力を備え、清廉であった首相』と絶賛しつつも、大久保含める当時の新政府首脳部が東京都政上における水道問題については全く無策であり、近代的な上水道工事がはじまる1891(明治24)年まで、『江戸幕府の余慶によって水を飲んでいたといっていい』と、旧政府であった江戸幕府が実施した近代まで利用されていた優れた上水道の開削および徹底したその管理体制も紹介されており、江戸全期を通じて、幕府が生活用水の確保に腐心したことを暗に言っておられます。

 

 江戸での生活用水(水源)確保に徳川氏(即ち、後の幕府内)で一番苦労した連中は、間違いなく最初に江戸に入った家康とその家臣団でありました。現在の東京都港区赤坂1丁目から同区2丁目にかけて『赤坂溜池町』という地名があることは都内にお住まいの方々にはよくご存知だと思いますが、家康たち徳川家臣団が江戸に入府した当初、この一帯は『桜田村』と呼ばれ、湧き水(自然の水溜まり)の池があり、江戸城外堀の一角を成していました。湧き水=自然の水溜まり、即ち『溜池』があったこそ、その名残として赤坂溜池という地名で残っているのであります。

 

 溜池(桜田の池)は、江戸中期頃(1653年)に開通されれた玉川上水などで江戸市中の水道設備が整ったことによって、1700年代から断続的に埋め立てられるようになり、1888(明治21)年には完全に埋め立てられ市街地・溜池町になるのですが、家康たちが江戸に入府した当初は、この溜池の貯水を上水として利用していました。

 

 『江戸の市街化は(中略)、溜池の水を飲むといったことからはじまったのである。』と、司馬先生は『街道をゆく 赤坂散歩』の文中で述べておられますが、家康たちや家臣、その家族たちが飲んでいた『溜池の水』は、現代人の筆者が思うだけで、泥臭く不味いと感じてしまいますが、実際、決して水質は良くなかったらしく、その事についても司馬先生は同書内で、肥後国(現:熊本県)の大名であった細川忠興が、江戸城普請を担当していた藤堂高虎(伊勢津藩初代藩主)から、肥後には帰国せずに江戸城の西の丸に詰めてもらえないか?と請われた時、忠興は『冗談ではない。こんな泥水を飲んですごせるか』と言って断った逸話を紹介された直後、『江戸の草創のころは、よほど水が悪かったに違いにない』とも述べておられます。

江戸の深刻な水問題に立ち向かった徳川家臣団たち

 上記の水質劣悪な江戸であった最初に改善したのが、家康の家臣の1人である『大久保藤五郎(諱:忠行)』という人物でした。大久保藤五郎は現在でもあまり知られていない武将でありますが、家康譜代の三河武士の1人であり、「三河物語」の作者であり、講談や時代劇で有名な天下のご意見番・大久保彦左衛門(忠教、だだのり)の叔父にあたる人物でもあります。
 藤五郎は若年の時(1563年)、若き主君・家康が戦国大名として自立した直後の第一難関というべき「三河一向一揆」が勃発。多くの家康家臣団も主君である家康に離反し、一向一揆軍に加勢するほどの有様であり、家康自身も合戦中に何度も危険な目に遭うほどの大混乱ぶりでした。藤五郎も家康に従軍した折に、鉄砲で撃たれ落馬。腰部を負傷して歩行不能となり、以後、武将としての活躍の場である合戦には出陣不可能となりました。
 歩行不能となり合戦での活躍の機会を永久に絶たれた藤五郎は、「別の道」で家康に仕えるようになります。別の道とは何か?それは非常に珍しい「菓子づくり侍」として家康に奉公するということでした。詳細は判っていませんが、藤五郎は菓子作りに精通しており、せっせと菓子(茶菓子)を作っては家康に献上し始めます。
 菓子と言っても、現在のようなケーキやシュークリームといった洋菓子は勿論なく、藤五郎が作っていたのは、餅・饅頭といった和菓子でしたが、家康も藤五郎が作った菓子を気に入り、藤五郎を徳川氏に菓子を献上させる役目の長である菓子司に任命するほどであり、家康は普段献上される菓子には毒殺を怖れて、食べませんでしたが、藤五郎が献上した菓子は信頼して食べていたという逸話が残っています。戦場での槍働きなどの武勲、領内統治での功績で主君の信頼を得るという武将は数多存在しますが、藤五郎のように「菓子を献上して主君の信頼を勝ち取った武将」というのは、とても珍しく、殺伐とした当時にあっては非常に微笑ましいものを感じます。
 1590年、家康が秀吉の命令によって関東に転封、江戸に入府した際には、藤五郎も勿論、主君・家康に従っています。何度も記述させて頂いたように当初、水質が劣悪な江戸に入った後でも藤五郎は家康に菓子を献上していたのですが、藤五郎は菓子作りには必要不可欠な「水」をどこから確保していたのか?
 藤五郎は、菓子作りに使う水を、江戸城より北東20km離れた武蔵野台地にある水量豊富な『池の水・狛江』から得ていたと言われています。この池の水・狛江こそ、現在の東京都三鷹市と武蔵野市にある『井の頭池』であります。井の頭池は、七つの湧き水口を持つ水源豊かな池であったので、狛江の他に、『七井の池』という別名でも呼ばれていました。
 現在の井の頭池は恩賜公園として、多くの人々の憩いの場となっていますが、縄文・石器時代の古代より極めて質の良い湧き水を湛える地で、周辺に住まう人々に質良好の生活用水を提供してくれる貴重な水源であったので、池の近郊には竪穴住居などの遺跡が発見されています。また平安中期には井の頭弁財天が建立され、信仰の場としても崇めら、鎌倉幕府の創始者・源頼朝も弁財天を庇護しています。因みに、現在の井の頭池という地名を命名したのは、江戸幕府3代将軍・徳川家光(2代将軍・秀忠の説もあり)であると言われ、江戸を潤す『水源(井・い)の中で最高(頭・かしら)』であるために、『井の頭』と命名したと伝えられています。
 大久保藤五郎が菓子作りのために井の頭池から水を運んでいた頃には弁財天は幾多の戦災で荒廃していましたが、狛江/七井の池の湧き水は変わらず良好の状態でありましたので、江戸の水不足に苦悩している家康は、湧き水の存在を知る藤五郎に対して城下町として整いつつある江戸城下町に『池の水を水源とする上水(水道)開通の普請』を命じます。
 因みに、上水普請を命じられた藤五郎は、菓子作りの名人であっても治水土木、即ち上水普請に関しては殆ど素人であったと言われていますが、藤五郎は苦心の末に、自然の地形の高低差を利用する自然流下方式を用いて、狛江を水源とする平川(現:神田川)を途中まで水路として使い、途中で人工水路を開削して狛江を水源とする上質の水を江戸市中へ届くようにしたのであります
 藤五郎が責任者となり、狛江を水源とした延長63kmにも及ぶ上水が『小石川上水(後の神田上水)』であり、江戸初の本格的上水の嚆矢となります。これによって江戸草創期の水問題は解決され、家康の江戸建設計画は軌道に乗り始めるようになります。
 家康は、水問題解決に大きな功績を挙げた藤五郎に対して、名馬・山越と、『主水』という名前を褒美として与えました。主水という呼び名は、人気時代劇「必殺シリーズ」の主役であった故・藤田まことさんが演じられていた「中村主水」で良く知られているように、「もんど」が通例ですが、藤五郎が授与された主水限っては、『水が濁って(濁点)があってはいけない』という洒落た理由として、「もんど」ではなく、『もんと』と命名されました。これより後、藤五郎は初代・大久保主水忠行とになり、主水忠行の子孫である歴代当主も大久保主水と名乗り、幕府御用達の菓子司となり、江戸城中で催される行事で使用される菓子製造の責任者を歴代の大久保主水が務めるようになります。徳川家光や「暴れん坊将軍」として有名な8代将軍・徳川吉宗たち歴代将軍も大久保主水が差配した菓子を食していたことでしょう。

 

 1600年、家康は天下分け目・関ヶ原合戦で勝利、3年後には征夷大将軍に任命され江戸で幕府を開き、天下の覇者となります。それまで草深い田舎の関東地方の地方都市として成長しつつあった江戸は、一躍、天下人の牙城となり、天下一の都として急成長していくことになります。
 江戸中期(4代将軍・徳川家綱治世時、1650年代)頃になると、江戸市街は名実共に、「将軍のお膝元」として天下一の城下町の人口を誇っており、一説には江戸市中で約40万人であったと言われています。この江戸市中の人口は当時の世界有数都市であったフランスのパリの約50万人、イギリスのロンドン約56万人に匹敵するほどの比率であり、当時から江戸は世界有数の大都市であったことがわかります。
 上記の江戸での人口急増により、初代・大久保主水が開いた上水のみでは、江戸市民の水を賄えきれなくなり、江戸は再度、深刻な水不足を抱えるようになっていました。1652年11月、この事態を憂慮した幕閣は、多摩川を水源とする当たらな上水を開削する普請を敢行。
 6000両という大金を事業費用に充て、「知恵伊豆」と称せられいた老中首座・松平信綱(伊豆守)が普請の総奉行となり、水道奉行には、代々関東郡代として江戸および関東の開拓事業に代々携わってきた土木工事の専門家・伊奈氏の伊奈忠治・忠隆父子が就き、普請監督官として多摩川沿いの豪農であった庄右衛門・清右衛門兄弟が現場指揮を執る上水普請が敢行されました。
 この上水普請も難儀を極め、2度の失敗(土壌の関係)、工事資金の枯渇により庄右衛門・清右衛門が私財を投げ打って資金を支出した結果、1653年11月、上水は開削され、翌1654年6月には江戸市中全域に通水されました。この功績により庄右衛門・清右衛門兄弟には「玉川」という姓を幕府に与えられ、上水の管理役に任命されました。即ち「玉川兄弟」であります。
 江戸の官民が一体となって苦心の末、完成した上水こそ『玉川上水』であり、当時世界第一と言われる水道設備を備えた都市・江戸が誕生。水問題は解決し、この後も江戸市中の人口は増加することになり、8代将軍・吉宗治世時である1700年代になると、江戸は、遂にロンドンやパリを超える人口100万を抱える世界最大都市となったのであります。「大江戸八百八町」であります。この頃は、既に家康や初代・大久保主水は勿論、亡き者でありますが、江戸に入府した家康たちが苦心して解決した水問題への姿勢は、しっかりと彼らの子孫たちに受け継がれてゆき、江戸、即ち現在の東京の大繁栄に繋がっているのであります。
 因みに、来年のNHK正月時代劇である2夜連続放送予定の『家康江戸を建てる』では、第1夜では「江戸の水問題」についての物語が展開され、家康は市村正親さん、大久保藤五郎は佐々木蔵之介さんがそれぞれ演じられますが、筆者としては、どのように家康たちが江戸の水問題に立ち向かってゆく物語が展開されてゆくのか楽しみであります。