「武断」から「文治」の転換期を生きた傑物・柳生宗矩

 剣術あるいは、並々ならぬ諜報力を有し、江戸幕府の初代・惣目付として諸大名に畏怖された柳生宗矩は、その職歴により剣劇などの創作の世界では、幕府(徳川)を護るために平気で暗殺(謀略)も厭わない冷酷無情の官僚として描かれてしまうことが多い、ということは先の記事でも何度か紹介させて頂いた通りですが、実際はそれまで殺人の技能としてのみ特化されていた「剣術」に、禅宗の教えを上手く融合させ、己の精神・身体を鍛えるための『武道、つまり剣道』と昇華させてゆき、宗矩晩年の将軍・徳川家光の人格形成に大きな影響を与えました。そればかりでなく、人を殺す剣「殺人剣」を、他人を活かすために使う剣『活人剣』という高尚な思想をも打ち出していおり、宗矩という人物は謀略で人を陥れる冷酷ではなく、更に言えば、家光の四男で5代将軍となる徳川綱吉の時代に、幕府は強引な武断統治から穏健的な文治統治に主軸を置くようになるのですが、その文治的思想を持った人格者は幕閣の中で、宗矩はパイオニア的存在であったと言えます。
 戦国の荒い風潮から、太平を享受する江戸期の転換点の入り口で、宗矩は戦国期の象徴の1つである殺人技能「剣術」の大家でありながら、『活人剣』『剣禅一如』を提唱したことを鑑みても、柳生宗矩という人物は、正に新時代に飛翔した傑物の1人であったと言っても過言ではないと思います。
 宗矩が提唱した「活人剣」と「剣禅一如」とは、どのようなことであったのか?今回はそのことについて、宗矩が後世に書き遺した書物『兵法家伝書』をもとにして探ってゆきたいと思います。

宮本武蔵の「五輪書」と柳生宗矩の『兵法家伝書』

宗矩と同時期を生きた剣豪・宮本武蔵が最晩年に記した地・水・火・風・空の5巻から成り、「武芸は武士の道である」という文言から始まる「五輪書」はあまりにも有名であり、「戦況に応じて武器を使い分けよ(地の巻)」「大小の防御は状況によって応じよ(同巻)」「戦う相手より有利な地の利を占めよ(火の巻)」「己の敵の立場になって、勝つ戦略を考えよ(同巻)」など、無敗剣豪・武蔵ならではの現実に即した戦略眼に記された五輪書は、現在でも中国兵法書「孫子兵法」と並んで、ビジネス戦略書として国内外を問わず多くの人たちに愛読されていることは周知の通りでございます。

 

 現実に即した戦略の重要性を説く武蔵の五輪書に対し、宗矩が晩年記した殺人剣・活人剣・無刀の3巻から成り、『故人曰く、武器は凶器であり、天の道に背くものである』という明らかに孫子兵法を出典としている文言から始まる『兵法家伝書』は、有名な文言である『1人の悪人を殺し、万人を生かす(殺人剣)』『学ぶという門は、入り口(手段)であって、家(目的)ではない。よって門事体を家と思ってはならい』『学を達成すれば、心清らかになり、これが至上の精神となる』『平常心こそ道である』など、政治的要素、そして何よりも古代中国の儒教および老荘思想、ひいてはその思想から派生した『禅宗(仏教)』の主義を何より重んじているのが特徴となっています。特に、『心法/平常心で物事に当たる』『学ぶことは手段であって、目的ではない。』という学問に対する姿勢について記しているのは、明らかに禅の開祖・達磨大師が文字(手段)に囚われ過ぎて、進むべき道を見失うことを戒めた『不立文字(月をさす指は、指であって月そのものではない)』に影響を受けています。
 つまり、武蔵の五輪書は全般に渡って「状況に応じた戦略眼」「勝つための方法」を力説しているのに対して、宗矩の兵法家伝書は『己の精神修養』『平常心で物事に当たること』を全般的に強調し、武蔵と宗矩という戦国期を生き残ってきた2大剣豪が各々異なった思想を持っていたことが歴然としています。

 

 ・武蔵は浪人として、講談などで有名な京八流の吉岡一門や佐々木小次郎の決闘(巌流島)などに代表されるように、数々の対決に勝利してきたために、状況に応じて戦法および装備を変えることによって「勝負に勝つこと」を重視。

 

 ・宗矩は、徳川将軍家剣術指南役という将軍家の教育者として仕え、ただ勝つための剣術(兵法)を教えるのではなく、剣術と禅によって精神を鍛錬/修身の重要性を説くことによって、統治者(将軍、特に徳川家光)を、天下万民を統べる人格を備えるように教育していくことを重視

 

 上記のように、2人の違う生き方を思うことによって、夫々異なる兵法思想を持つように至ったのですが、勿論、武蔵も決して禅宗を軽視していたのでなく、寧ろ禅宗に造詣が深く、武蔵自身が達磨大師を描いた作品はあまりにも有名です。しかし、剣と禅を両輪の如く学び、精神修養を重視したのは、寧ろ宗矩の方でした。
 この事(禅思想による精神修養)を自著「兵法家伝書」で強調したため、武蔵の合理的戦略を説く「五輪書」より難解な点が多々あるので、兵法家伝書は五輪書ほど後世(現代)には普及しなかったことは否めませんが、将軍・家光が宗矩によって鍛え上げられ、天下人としての器量を備えるようになり、次代の家綱、そして文治政治の頂点を迎える綱吉の時代へと繋がってゆくことになったのであります。柳生新陰流は、徳川将軍家のお家流儀であるので、宗矩が柳生新陰流の極意を「剣禅一如」として説き、将軍である家光の成長に大きな影響を与えたことを思うと、宗矩は実に職務に誠実であった剣豪官僚であったと言えます。

宗矩と沢庵禅師が目指した「剣禅一如」

 『沢庵宗彭(たくあんそうほう)』という当時を代表する禅僧と生涯に渡って深い信頼関係で結ばれていた宗矩は、若年期より決して身体・精神と共に強健ではなかった3代将軍・家光を天下人に相応しい人物として教育するために、その教育方針を沢庵と相談。沢庵は、家光には剣と共に心の鍛錬させること、つまり禅を勧めることを宗矩に提案し、沢庵は剣禅一致を説いた著書『不動智神妙録』を宗矩に進呈。宗矩は沢庵から頂戴した著書に大いに感銘を受け、宗矩が著した兵法家伝書の基礎になったと言われています。
 沢庵と言えば、昭和期を代表する歴史作家・吉川英治先生の代表作の1つ「宮本武蔵」で、暴れん坊であった少年・武蔵を更生させるために折檻をしたりするなど、のちに剣豪となる武蔵の人格形成に多大な影響を与えるといった武蔵との関係が有名ですが、これは吉川先生によって創作されたものであり、史実では、先述のように将軍・家光の教育方針を相談するほどの信頼関係で結ばれていた宗矩の方であります。

 

 宗矩・沢庵が創出した剣禅一如という方針で、心身を鍛錬され、将軍・家光は天下人として治国の才も宗矩から学んだと言われています。新井白石が記した『藩翰譜』の柳生の項の文中内で、『左大臣家(家光)は常に、側近の者たちに、天下の務め(治国の事)、宗矩から学んだ(以下、略)』、また宗矩が他界した後も家光は事あるごとに、『宗矩が生きてこの世にあれば、この事(問題)について尋ねてみたいと言うほど、宗矩を慕っていた』といったように、家光の人格形成に宗矩から多大な影響を受けたことを記述されています。
 因みに、家光が将軍であった頃、宗矩は既に高齢であり、大名の石高としては1万2千石のみを有する小身大名であり、他の幕府高官よりも遥かに格下ですが、宗矩が1646年、74歳で没した後、家光は哀悼の意を示し、「従四位」の官位が追贈されています。従四位という位は、忠臣蔵(赤穂事件)で有名な悪役・吉良上野介で有名な幕府高家旗本、あるいは10万石以上クラスの大名が拝受するものであり、わずか1万石クラスであった宗矩に贈られる官位ではないのは明白ですが、家光が従四位を追贈するほど宗矩を信頼していたのかがわかります。