当代きっての悪役とされる柳生宗矩の実像

大和国(現:奈良県)の山間・柳生荘のから興った国人領主・柳生氏、その興亡、そして宗厳こと石舟斎が創始し、後に徳川将軍家の御家流儀となった柳生新陰流については既に別記事にて紹介させて頂いた通りでありますが、今回は石舟斎の五男であり、徳川家康・秀忠・家光の徳川将軍3代に剣術指南役、更に武家を監察する初代総目付(のちの大目付)として仕え、一国人衆であった柳生氏を小禄ながらも近世大名まで仕立て上げた『剣豪政治家・柳生宗矩(但馬守)』について少し紹介させて頂きたいと思います。

 

 国人領主・柳生氏について紹介させて頂いた記事でも宗矩について若干ふれさせてもらいましたが、柳生新陰流を創始した父・石舟斎、隻眼の剣豪として創作の世界でお馴染みの宗矩嫡男・十兵衛(三巌)たちと比較すると、どうも宗矩は父や息子よりも有名ではないように感じます。更に宗矩を主要登場人物とされている創作の世界(隆慶一郎氏の「影武者・徳川家康」や時代劇「柳生一族の陰謀」など)でも、息子・十兵衛は善良な剣術家として人物設定されている反面、宗矩は柳生氏の繁栄と徳川将軍家を護るためなら、幕府高官という立場を利用しつつ陰謀によって平気で他人(敵対勢力)を陥れ、柳生の礎である剣術も暗殺の道具として利用するという「冷酷非情な人物」として描かれ、善玉・十兵衛の最大の敵役とされてしまうことが多くあります。
 宗矩=悪の権化というのは、飽くまでも我々に面白い物語を常に書いて下さっています作家先生方がより深く面白い内容を書くための創作上の人物設定であり、史実の宗矩という人物は、父・石舟斎の代で柳生庄2千石を全て失い没落した柳生氏を、徳川氏に仕えて関ヶ原合戦の折に後方攪乱で功績を挙げることによって復活させたばかりでなく、将軍家剣術指南役、次いで幕府高官となって柳生氏を1万2千石の大名まで身代を大きくするほどの政治・知略・人格・文武に優れ、戦国から江戸への変革期(新時代)を見事に生き抜いた傑物であったことは間違いありません。
 江戸幕末・明治初期の英雄の1人であり、今年の大河ドラマ「西郷どん」の主要キャストでもある勝海舟(麟太郎)も有名な『氷川清話』の中で、名僧・沢庵を徳川家光に推挙した宗矩を褒めつつ、『柳生但馬守は尋常一様の剣客にあらず』と、あれほど人や物事に対して辛辣な評価をすることで幕府首脳や明治新政府の間で有名であった海舟が宗矩を絶賛している点を見てみても、宗矩という人物は優れていたのでしょう。もし宗矩が、先述の創作上のイメージのままの悪徳な人物であったなら、徳川将軍家やその幕閣が宗矩を信用し、て諸大名を監察させる大目付という要職には就けなかったでしょう。
 更に宗矩が冷酷無情ではなく情誼に厚い人物であった有名な逸話であるのが、1616年、宗矩の友人であった石見国津和野(現:島根県鹿足郡津和野町)4万石藩主であった坂崎直盛(出羽守)が幕府に対して反逆計画(坂崎事件)が露見した際、宗矩は命を賭して単身直盛の下へ赴き諫言。直盛のみを切腹させることで、坂崎氏4万石を存続させるという条件で幕府首脳と直盛本人の説得に成功し、反逆を未然に防ぎました。しかし、幕府は宗矩が取り付けた約束を反故、直盛切腹後、坂崎氏も改易してしまいました。結果的に、泉下の友人となった直盛を騙す形となってしまった宗矩は、当時3千石の旗本でありながら、直盛の遺子・平四郎(当時19歳)を引き取って200石を与えて保護したばかりでなく、坂崎旧臣2人も柳生氏で引き取り、遂には謀反人となった坂崎氏家紋であった「二蓋笠(にがいがさ)」を、柳生氏の副紋として使うようになっています。時代劇でも利用されている柳生氏の象徴「柳生二蓋笠」は、宗矩が不本意ながらも自分の友人であり謀反人として処罰された坂崎直盛への情誼から誕生したのであります。

乱世で苦汁を味わった宗矩青年

 宗矩が大和柳生庄を治める国人領主であり剣豪である石舟斎(当時は宗厳)の五男として誕生したのは1571年であり、正に織田信長が一向一揆衆・浅井氏・朝倉氏・武田氏など地方の強豪と悪戦苦闘を繰り返している戦乱の只中でありました。
 大和という畿内(中央政権)に割拠する山間の小領主である柳生氏も争乱とは無縁でなく、父・石舟斎は宗矩誕生前の多武峰合戦(1566年)で重傷を負ったり、宗矩誕生年である1571年には宗矩の長兄であり柳生氏次期当主であった厳勝(尾張柳生の開祖・兵庫助の父)が辰市合戦において再起不能となる重傷(鉄砲傷)を負い、隠居を余儀なくされました。次兄・久斎、三兄・徳斎は既に僧籍に身を置いており、国人領主であり剣豪の家柄である柳生氏の将来を背負って立つのは、宗矩の直ぐ上の兄である宗章、そして宗矩のみでした。四兄・宗章は、後に小早川秀秋、次いで伯耆国(現:鳥取県中西部)の米子藩である中村氏に仕えていましたが、藩内のお家騒動に巻き込まれ非業の死を遂げています。
 以上のように、後に宗矩の尽力によって剣豪の家柄として後世まで有名となる柳生氏ですが、戦国期には小国人衆の典型らしく争乱の悲哀を味わっているのであります。少年期の宗矩は、父や兄たちの苦労を間地かで嫌になるほど見続けたに違いなく、このことがのちの宗矩の人格形成に大きな影響を与えることになったのですが、柳生氏に更なる苦難が続きます。1585年、宗矩14歳の折、新たな大和国主となった羽柴秀長(豊臣秀吉の弟)が実施した太閤検地によって、柳生氏が所有していた隠田(現在で言えば脱税の一種)が摘発され、全所領を没収され柳生氏は一時的ながらも滅亡、柳生氏の最悪な時代を迎えてしまいます。学校の授業などで必ずと言っていいほど、豊臣秀吉が全国の米の生産力(経済力)を把握するために実施した有名な政策「太閤検地」ですが、その陰では柳生氏のように犠牲となった国人衆や土豪たちが無数にいたのであります。
 先祖代々の所領から追われ、文字通り無一文となってしまった石舟斎・宗矩を含める柳生一族は、近江国(現:滋賀県)や京都の公家など下で寓居することを余儀なくされ、その苦難の中で青年に成長した浪人・宗矩は、秀吉の小田原攻め(1590年、宗矩19歳)などに陣借りで出陣したとも伝えられています。
 陣借りとは簡潔に述べさせて頂くと、合戦の際、無所属の者(浪人)たちが手柄を求めて、自費にて参戦することになります。因みに宗矩が浪人として参戦したとされている小田原攻めでは、漫画家・宮下英樹先生の代表作「センゴク」の主人公であり、秀吉の寵臣として大名になりながらも、以前の九州征伐での失策の責によって改易されて宗矩と同じ境遇に落ちていた仙石秀久(権兵衛)も息子・忠政や旧臣たちを集め、陣借りとして秀吉の下へ参陣し、前哨戦である伊豆山中城攻め、本戦の小田原城攻めで大きな手柄を立て、秀吉によって再び大名として取り立てられています。更に秀久についての余談を続けさせて頂くと、温泉やススキ草原で有名な箱根山麓にあり、株式会社ガイナックス制作の人気アニメ「新世紀エバンゲリオン」の舞台となっている第3新東京市のモデルになっている「仙石原」という地名の由来は、一連の小田原攻めにて浪人の身でありながら大活躍し、晴れて大名に返り咲いた秀久の武勇に因んだものと以前はされていました。

 

 上記の秀久と違い、小田原攻めでは目立つほどの功績を立てることが出来なかった宗矩に漸く転機が訪れたのが、1594年5月、宗矩23歳の時でした。京都郊外の紫竹村の陣屋で、当時豊臣政権下の最大大名であった徳川家康との出会いでした。父・石舟斎が親徳川派の豊前中津(現:大分県中津市)の大名・黒田長政(名軍師・如水の息子)の仲介によって、若い頃より兵法(剣術)好きとして知られた家康が柳生新陰流の究極奥義・無刀取りの見分を所望したので、家康への謁見が叶いました。その石舟斎のお供として四兄・宗章、そして宗矩がいたのであります。

柳生氏伝来「剣術」と「諜報」を活かした名官僚・宗矩

 柳生父子は、家康の面前で柳生新陰流の太刀筋および無刀取りを披露し、家康は柳生父子を気に入り、徳川への仕官を勧めます。石舟斎は高齢(当時:67歳)を理由に仕官を辞退、宗章も理由は不明ですが家康には仕官せず、結果的に宗矩が徳川氏旗本200石として家康に仕官することになったのであります。宗矩が当時最有力大名であり、のちに天下人になった徳川家康に仕えはじめたことにより、長らく不遇の中に陥っていた柳生氏が不完全ながらもようやく蘇返ったのであります。
 徳川氏に仕えた宗矩は、天下人・豊臣秀吉が死去した2年後に勃発した天下の分け目の「関ヶ原の戦い(1600年9月)」の直前には、家康の命令により故郷である大和柳生へ戻り、父・石舟斎と共に関係の深かった国人衆や忍者衆(伊賀者)などの勢力を結合し、西軍の情報収集および後方攪乱を行った後、関ヶ原本戦に参戦しています。宗矩が大和で行った一連の裏工作の成功の報告を聞いた家康はとても喜んだと徳川氏の正式記録とされている「徳川実記」には記されています。関ヶ原の戦後、宗矩は功績(裏工作)によって、父の代で失っていた柳生庄2千石を与えられ、更に翌年の1601年には、江戸幕府2代将軍・秀忠(家康三男)の剣術指南役となり、1000石が加増され所領は3千石となり、柳生新陰流は文字通り「天下一の剣術」と称されるようになり、柳生氏は完全復活を遂げたばかりでなく、前代を超える隆盛期を迎えることになるのであります。これも全て宗矩の功績であります。
 柳生氏が剣術以外に諜報力(あるいはその人材)に優れ、その力を利用して戦国期を生き残ったことは前記事の国人領主・柳生氏で紹介させて頂きましたが、宗矩が柳生氏を再興できたのは、お家芸である柳生新陰流ではなく、柳生本拠であった大和国の地理的環境によって培われた「諜報力」によってでした。宗矩が将軍家剣術指南役を経て、各地に諸大名などを監察する(初代)大目付に任命された大きな理由は、柳生氏が持っていた優れた諜報能力があったからであり、宗矩はその諜報力を駆使して役目を果たして役目を果たしていたと思われます。
 父・石舟斎が創始した柳生新陰流が将軍家お家芸という全国ブランドになり、全国の多くの諸大名が将軍家に倣って、柳生新陰流をお家芸としたのも宗矩の役目の大きな一助となりました。即ち、石舟斎や宗矩が鍛えた門弟たちが各地の有力大名に柳生新陰流を伝授する剣術指南役として迎え入れられ、その門弟たちを通じて宗矩は、江戸で将軍家の高官としていながらも、諸大名の動静を知ることができたのであります
 因みに宗矩が諸大名に送り込んだ門弟たちは、外様大名のみでも、北は東北の伊達氏(仙台藩62万石)・北陸の前田氏(加賀藩100万石)・東海の藤堂氏(津藩32万石)・四国の蜂須賀氏(徳島藩25万)・山内氏(土佐藩20万石)・中国の毛利氏(長州藩37万石)・九州の鍋島氏(佐賀藩35万石)・立花氏(柳川藩10万石)といった江戸期を代表する大藩ばかりであり、宗矩は門弟を通じて各地の情報を収集していたと思われます。
 宗矩の先代たちは、『剣術』と『諜報力』を武器にして、小領主ながらも戦国期を生き残ってゆきましたが、江戸幕府の下に平和の時代を迎えるようになってからは、宗矩は幕府政権による平和維持のために先祖伝来の『剣術=情報収集力』として活かしていったのであります。こうなってしまうと、先述のような時代劇などでの宗矩に対する「剣術を陰謀の道具に使った」・「権謀術数を弄する悪役」といったイメージが定着してしまっても仕方がないと筆者は思ってしまうのですが、その反面、宗矩は乱世では有効であったが平和の時代には無用の長物化となっていた「剣術」と「諜報」を平和の時代に上手く転用する才知、そしてそれを活かしきる能力を備えていたことを裏付けているとも筆者は思っています。

 

 父の代に滅んでいた柳生氏を再興したばかりでなく大名までに昇り詰め、幕府の要職・大目付として有能であった「官僚としての宗矩」は上記の通りでありますが、もう1つ宗矩が後世に遺した業績として挙げられるのが、戦国期において殺人術であった剣術を、身体を鍛え武術のみを身に付けることのみを目的とせず、精神修養も兼ね備えた『武道/のちの剣道』へ昇華していったことであります。当代きっての名僧の1人であり、宗矩の友人でもあった沢庵宗彭(たくあんそうほう)と共に身体を鍛える「剣」、精神を養う「禅」という2つの要素を組み合わせ1つにした『剣禅一如』の思想を旨とし、悪1人を殺し、万人を活かす剣『活人剣(かつにんけん)』を最も崇高な武道として説くことによって、平和期において剣術(武道)の在り方を追求した宗矩。この宗矩の思想は、3代将軍・徳川家光にも大きな影響を与えることになり、家光は宗矩のことを終生尊敬してゆくことに繋がってゆきます。
 新時代へ飛翔した名剣術指南役・柳生宗矩については、次回の記事で紹介させて頂きたいと思います。