鎌倉期の武士団が好んだ戦法・「一騎打ち戦法」

 日本全国の農業生産力や経済力が、飛躍的に発展した戦国時代(室町後期〜安土桃山期)では、その時代を生きた戦国大名の力も大きく向上させる事になったので、合戦規模や戦い方も以前の時代(鎌倉期〜室町前期)と比べて遥かに大きなものと変貌していました。長期化の合戦が可能となり、兵力動員規模も大きくなり、大軍同士の対決というのが、日本各地で起きました。大軍同士が合戦するという事になれば、兵士が個々バラバラで闇雲に戦っていたのでは勝負にならないので、合戦の際には、陣形(隊列)を組んで、互いに組織的に戦うという『集団戦法』が主流でした。では室町期以前の、武士が台頭した鎌倉期や平安末期(源平争乱期)の戦い方はどうであったか?それは未だ合戦の規模が戦国期に比べ小規模であったために、全軍隊列を組んで戦うという戦法までは発達しておらず、形式に沿って進められた「儀礼的合戦」であり、その中に、当時の合戦の花形であった騎馬武者同士が『一騎打ち戦法』が含まれます。

 

 武士が、本格的に歴史の表舞台に登場した源平争乱(平安後期)や鎌倉期の合戦には、「形式」があり、それに沿って合戦が行われていました。戦国期の合戦に比べると、平安・鎌倉の武士の合戦というのは、驚くほど礼式的であり、牧歌的でもありました。そのある種の面妖な合戦形式を簡単に箇条書きにすると以下の通りになります。

 

@先ず、両軍(例:源平軍)が、放つと音が出る鏑矢(かぶらや)を放ちます。これは「矢合わせ」と呼ばれ、合戦開始の合図のようなものになりました。つまり陸上競技での「よーい、スタート!」といって合図の空砲を放つような存在です。

 

A楯越しに遠矢(とおや)を射掛け合う「楯突戦(たてつきいくさ)」を始めます。つまり、両軍とも楯で身を護りながら弓矢で遠距離攻撃をやり合います。

 

B弓馬の術に長けた騎馬武者が前に出て、騎馬武者同士の騎射戦が行われます。これは「馳組戦(はせくみいくさ)」と呼ばれます。

 

C上記までに決着が付かなかった場合は、徒士武者なども参戦し、両軍入り交ざって、刀剣類での白兵戦(格闘)で決着を付けます。この戦い方を「組打ち」と呼ばれています。

 

D事例は少ないですが、騎馬武者同士が当時の戦場の華と言われた『一騎打ち』を行い、それで勝敗を決める事もあったそうです。この一騎打ちをやる前に、騎馬武者は、自分の出自(血筋)を長々と述べた後に、己の名を名乗り合い(つまり自己紹介)したそうです。

 

(@〜Dの参考文献:「図解!日本の戦い方 三笠書房」)

 

 以上のような鎌倉期の武士の戦い方を見てお分かり頂けたと思いますが、とにかく当時の武士は、合戦に対しての儀礼を尊重していたのが読み取れると同時に、Aの「馳組戦」では、如何に個々の騎馬武者の勇敢さに依存していたかがわかります。騎馬武者が勇猛であれば勝ち、臆病であれば負ける。鎌倉武士たちが、兵力ではなく、個々の果敢な心を拠り所にして戦っているようなものでしょうか。

 

 唯一、上記の儀礼的合戦のセオリーをほぼ無視して、より合理的に戦いを行い、数多の勝利を手にした天才戦略家・源義経がいます。彼は、騎馬武者の機動力を合理的に生かして、少数の騎兵団のようなものを組織し、敵である平家軍を奇襲で撃破する大勝利を収めていますし(一の谷の戦い)、平家軍との最終決戦であり、水上戦であった壇の浦の戦いでは、敵水軍の機動力を弱めるために、船の漕ぎ手である水主(かこ)を集中的に射殺したりするという合理的な戦術をとっています。もっとも非戦闘員である水主を射殺すというのは、合戦でも儀礼を重んじる武士の間では暗黙のタブー(禁じ手)であり、義経の目付け役を務めていた武士・梶原景時は、義経の戦術を猛烈に批判しています。
 兎に角にも、当時の武士は合戦の際には、勝っても負けても「正々堂々、美しく戦う」という粗いながらも一種の美意識を持ち、それによって合戦も儀礼的になったのですが、源義経はその美意識に関しては頓着しないで、「戦には勝てばいい」という考え方のみ持ち合わせ、合理的に戦いを進めて、戦うごとに大勝利を得てました。「理よりも実を取る」という戦略的思考を持ち合わせたというこの一点が、後世まで義経を「天才」と言わしめた由縁でしょう。しかし、この義経の天才が、美意識を持つ仲間の武士団には受け入れられず、最終的には非業な最期を遂げてしまうという結果にもなってしまうのですから皮肉なものであります。

 

 源平争乱期以来、儀礼的合戦(一騎打ち戦法など)のみを身に付けた鎌倉期の武士(御家人)が「集団戦法」を用いるようになった大事件が鎌倉中期に発生します。中国大陸の元王朝(モンゴル帝国)が日本へ侵略してきた「蒙古襲来(元寇)」がそれであります。
 蒙古軍の襲来は、主に筑前国(現:福岡県北部)などを含める北九州地方が戦場地になり、「文永の役(1274年)」「弘安の役(1281年)」の2度ありました。第一次蒙古襲来である「文永の役」の防衛側である日本軍(鎌倉御家人軍)と侵略側である蒙古軍の戦況を詳しく記した『八幡愚童訓』という古書があり、その文中には、日本軍、鎌倉武士たちが例によって、儀礼的合戦に則って、蒙古軍と戦おうとするのですが、文化歴史、戦法も違うので、蒙古軍との他戦いに戸惑い、苦戦奮闘している日本軍の姿を書き記しています。例えば、以下のような事が書いてあります。(重要と思う箇所を筆者が独自に抜粋箇条書きにさせて頂きました)

 

『御家人・少弐資時は、戦のしきたり(開戦の合図)として、先ず音の出る鏑矢を放った(つまり矢合わせ)が、蒙古軍はそれを見て嘲笑した』

 

『蒙古軍は、開戦の合図として、銅鑼(どら)や太鼓を打ち鳴らし、鬨の声を一斉に上げたので、日本軍側の騎馬武者の馬が驚き跳ね狂った』

 

『蒙古軍は、毒矢を放ち、日本軍の兵士たちを倒した』

 

『(蒙古の)大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打って指揮をした』、つまり蒙古軍は、集団戦法をベースとして戦っていたことを示しています。

 

『日本軍側の武士たちは、名乗りを上げての「一騎打ちや少数の先駆け」(つまりどちらも個人プレー)で敵軍に攻撃したため、原田一類、青屋勢2、3百の武者たちは集団で戦う蒙古軍に左右から取り囲まれ皆殺しにされた』

 

・『蒙古軍の武器・「てつはう(手投げ炸裂弾)」の威力と爆発音によって、日本軍は驚愕した』
等々・・・。

 

以上のように、日本の伝統的かつ儀礼的戦法を全く無視して、集団戦法で襲いかかって来る蒙古軍に対して、日本の武士たちは大いに悪戦苦闘していた事を顕著に物語っています。武士たちからしてみれば、第一次蒙古襲来は『我々が尊重してきた戦い方が完全否定され、未知の戦い方(集団戦法)を強いられた』という強烈なカルチャーショックであったに違いなく、否応無く、武士たちに、儀礼的かつ個人プレーに拠っている戦い方・「一騎打ち戦法」から、チームプレイ主義の『集団戦法』への戦法転換を迫られた大事件でもありました。
 第二次蒙古襲来(弘安の役)では、武士たちは集団戦法も採用し、浜辺には蒙古軍の侵入を防ぐための防塁や障害物を設け、集団で蒙古軍の上陸を阻止し、更には蒙古軍船を夜襲で沈めるという奇襲作戦も採り、蒙古軍に対して善戦しています。そして、折しも台風が到来、蒙古軍は壊滅的な打撃を受け、撤退しました。(世に言われる「神風」ですね)

 

 2度の「元寇」以降、日本の戦い方にも「集団戦法」が重視され始めるようになり、室町中期に起こった大乱・「応仁の乱」で戦闘部隊・『足軽』が登場する事によって、戦いでの集団戦法の重要性が増してくるのでした。

一騎打ちから『集団戦法』が主流となる室町後期と戦国期

 室町期以降の戦国時代の合戦形式は、(時代劇の合戦シーンでも見てとれますが)、敵味方の両軍とも陣形(隊列)を組んで、先ずは両軍とも弓鉄砲などの遠距離攻撃から始まり、続いて槍足軽が行進、敵とぶつかり合う、槍合わせが起こり、両軍同士の本格的な衝突が始まってゆく、という『集団戦法』が主流になるのですが、この近代的な戦法ともとれる「本格的な集団戦法」が芽吹き始めたのは、室町中期に勃発した大乱・「応仁の乱」からだと言われてます。
 応仁の乱の折り、京都市中を戦場にして東軍(細川)・西軍(山名)の両陣営が、正規の武士(守護大名軍など)以外の人々も戦場で投入しました。それは、農村から逃散し、食い詰めた人々などを大々的に雇い入れて、彼らを武装させ、集団的に活動させて、互いに敵軍の後方攪乱(補給路遮断)や放火といったゲリラ戦法を展開していました。この集団たちが『足軽(足がる、足白とも)』と呼ばれる軍事職業団(現代で言われる「傭兵」)なのですが、この時代の足軽の典型的な存在として、よく知られているのが「骨皮道賢」と呼ばれる人物でした。道賢は、東軍・細川に金品によって足軽の頭目として雇われ、敵軍(西軍)の後方攪乱や放火のゲリラ戦法を担当していました。
 応仁の乱期は、この道賢をはじめとする足軽たちが、それぞれ東西両陣営で金品で雇われ、盛んに敵軍同士に対して放火や破壊工作をやった事によって、京都市街は荒廃の一途を辿ることになるのですが、戦場で身軽な動きができ、組織的に動かすのが容易で、『集団戦法』に向く「足軽」という価値が高まった転機にもなった時期でした。これ以降から戦国時代の戦場では、足軽が軍勢の主力として活躍するようになってゆきます。

 

 最初に『足軽』という戦闘集団に注目し、大々的に導入したのは、室町後期の人物で『太田道灌(どうかん、資長とも)』(1432〜1486)という稀代の名将でした。道灌は、江戸城(千代田城)を築城した人物としても有名ですが、彼の出自は関東地方を長く統治している関東管領・扇谷上杉氏の家老の出身者であり、古典・和歌など古典的教養を身に付けた時代を代表とする教養人でしたが、軍事面では他に追従を許さないほどの改革者であり、『これからは集団戦法の時代が来る』、『集団戦法で欠かせない足軽が重要となる』といち早く見抜いた慧眼の持ち主であり、応仁の乱で戦場で活躍した足軽を多く雇用し、組織的に軍事行動をとれるように訓練を行い、常に迅速な動きに対応できるように『常備軍』として編成しました。
 以上のように、それまで(応仁の乱当時から)「火付け」や「後方攪乱」といったゲリラ戦法の使い手として存在した足軽を、組織的に雇用・訓練し、大名の軍団の常備軍として配備した太田軍(扇谷上杉)は、関東で無類の強さを発揮し、山内上杉氏の重臣・長尾氏や関東の諸勢力(豊島氏・千葉氏など)を合戦で撃破しています。この様に無類の強さを発揮した道灌の兵法(戦術)は「足軽軍法」と称せられたほどであります。
 道灌のような当代きっての傑物がもう少し長く生きていたなら、面白くなっていたかもしれませんが、最期は彼の主君である扇谷上杉氏の当主・上杉定正によって暗殺されるという非業な死を遂げます。初めて道灌が打ち立てた『足軽による集団戦法』という戦い方は、信濃国葛城(現:長野県埴科郡坂城町)を拠点とした強豪・村上義清の考案した「長槍戦術」のように地方でも生かされ、そして、全国規模になると英雄・織田信長の戦術や政策(『常備軍編成』→常備軍が住まう「城下町」形成→兵士と農民を区別する『兵農分離』)に生かされるようになってくるのであります。

 

 太田道灌が日本で組織的な集団戦法を初めて導入した人物とするならば、道灌より遥かに後輩にあたる織田信長がより大規模かつ組織的な集団戦法に改良した人物であり、その戦術を用い、最終的には天下の覇者まで成り上がりました。大規模常備軍を保持してゆくには経済面など大きな負担がかかりますが、何故信長には、それが可能であったのか?今度はその理由を筆者なりに探ってみたいと思います。