「厳島」が合戦場になった本当の理由とは?

古くから日本国内有数の風光明媚な景勝地(日本三景の1つ)・「安芸の宮島」として有名であり、江戸期から「厳島詣」として観光地として栄えて、1996年にユネスコ世界文化遺産にも登録され、現在でも国内外からの観光客で殷賑を極める『厳島(宮島)』ですが、1555年10月、5年前に漸く安芸備後国(現:広島県一帯)を基盤に戦国大名として自立した『毛利元就』と、周防・長門(現:山口県一帯)の2ヶ国を中心に中国・北九州に勢力を誇る名門戦国大名・『大内氏(総大将:陶晴賢)』の間で、決戦・『厳島の戦い』がありました。
 結果的に、元就率いる毛利軍が晴賢率いる大内軍に完勝し、事実上、大内氏の支配者であった晴賢は敗死。長く中国の覇者として君臨していた名門・大内氏の勢力は一挙に弱体化し、代わって安芸の新興戦国大名・毛利氏が覇者の座へ一気に昇ってゆくことになったのが、『厳島の戦い』であります。
 一般的(軍記物などの物語上など)には、大勢力で攻勢を掛けて来る陶(大内)軍に対して、後に「謀神」と謳われるほど有名となった謀略家・元就が、自身の戦力の劣勢を補うため、持てる限りの知略・謀略を駆使して、大軍を擁する陶軍を瀬戸内の『厳島』という狭隘な島へ誘い、大軍の力を削ぎ落した後、小勢で陶軍に対して奇襲攻撃を掛け、勝利したのが通説となっており、元就の厳島の戦いは、織田信長の桶狭間の戦い、北条氏康の河越夜戦と並んで、「日本三大奇襲」として戦国期の名合戦としても有名であります。
 上記のように、厳島の戦いは、大軍を擁していたにも関わらず、無策の晴賢が元就の施した巧緻に満ちた策略により、大軍展開に不向きな死地(厳島)へ誘われた挙句、毛利軍の奇襲でいとも簡単に敗死したというイメージが講談や物語上などで定説になってしまっています。しかし、この根拠は江戸中期に長州藩(つまり毛利家)の支藩の岩国藩家老である香川正矩・景継父子が編纂した軍記物語「陰徳太平記」が出典となっており、香川父子の主家にあたる長州藩(戦国期の中国地方の覇者・毛利氏)の開祖というべき元就の功績を大いに誇張して、「晴賢=愚将、元就=謀略の大家」というイメージを世間に植え付けたのであります。
 作家の永井路子先生(NHK大河ドラマ「毛利元就」の原作者)によると、晴賢は決して無策無能の人物ではなく、寧ろ当時から智勇兼備の名将(「西国無双の侍大将」として有名)の1人であったと評された上、『決して晴賢は元就に厳島へ誘き寄せられたのではなくて、自発的に「厳島の支配権を毛利から盗る」と決心し、厳島へ向かったのが目的であり、一方、陶軍を迎え撃つ元就も「厳島の支配権を断じて渡さない」と厳島で陶軍と戦ったのが、厳島合戦が起こった主因であった』と仰っておられました。(NHK歴史番組「堂々日本史より」)

 

 『毛利から厳島を盗る』(晴賢)、『陶から厳島を護る』(元就)という両者の強い思いが発端となった「厳島の戦い」。それほどまで両者が拘った『厳島』はどのような価値があったのか?それを探ってゆきたいと思います。

厳島は、信仰の島だけではなく、『中国地方の重大交易・経済拠点の島』でもあった

 日本の瀬戸内海の西部・広島湾の北西部に位置する厳島は、先史時代から既に人々が住んでいたことが遺跡発掘調査によって判明していますが、古代より島内中央にある弥山(みさん)を中心に厳島全体が山岳信仰の対象として人々から敬われるようになり、593年、豪族・佐伯氏によって厳島神社が創建されています。因みに佐伯氏は、安芸国佐伯郡を統治する有力豪族であり、のちに厳島神社神主を世襲してゆくことにります。
 創建当時の厳島神社は質素な社殿造りであったと言われていますが、現在のように朱色に彩られた絢爛な寝殿造りの社殿として再建したのが、有名な「平清盛」であります。安芸国を統治する安芸守に任命された経歴も持つ清盛は、1168年頃に厳島神社を大再建。この時に、神社前方の土地を低く削って、鳥居および社殿直前まで海水を流し込む大普請を決行し、現在でも厳島の象徴として有名な「海上に浮かぶ朱色の大鳥居」が登場しています。
 当時の中国大陸王朝・宋との日宋貿易が国家繁栄の礎となると強く想っていた清盛は、それまで宋船が大規模であったため、大陸交易が筑前国博多港(現:福岡県福岡市博多区)止まりであったのを、支障なく大型船が畿内まで航行できるように、安芸の音戸の瀬戸(現在の呉市と倉橋島の間)の開削などを難工事を行って瀬戸内航路を開拓すると同時に、平氏の拠点である摂津国福原(現:兵庫県神戸市)の外港として「大輪田泊(神戸市兵庫区)」を開港し、日宋貿易を更に盛んしました。清盛の宿願により大いに開かれた瀬戸内航路の『中継点』に位置する厳島神社は、『海上交通の守護神』として厚く尊崇されるようになりました。

 

 中世当時から大陸朝鮮(戦国期になると西洋も加入)から博多港を経て、西から畿内へ向けて海外の最新の文物が通る大動脈となっていた瀬戸内航路ですが、その中でも特に重要な拠点(寄港地)とされていたのが、「蒲刈島(かまがり・釜雁とも、現:広島県呉市)」・「塩飽本島(しわく・志波久とも、現:香川県丸亀市)」、そして『厳島』でした。
 元就と晴賢が戦う戦国期以前より瀬戸内航路の重要拠点となっていた厳島は、「物流の集積地の港町」という顔」と、「信仰の島によって栄えた門前町」という側面を併せ持った『経済拠点の島』として繁栄しました。厳島神社に奉納される絵馬の寄進者が京都・堺など当時の中央圏内の有力商人であり、また当時の厳島の繁栄を描いた屏風絵には、沢山の船が停泊し、多くの商人、更には南蛮帽子を身に付けている西洋商人で賑わう様子が描かれています。
 「信仰」「物流(港)」が上手く融合させた拠点を持った勢力は強くなります。織田信長も「津島」「熱田」という戦国当時の「信仰」と「港」を上手く併せ持った拠点を支配していたことにより、強固な経済基盤を有していました。
 数多くある瀬戸内航路の拠点(寄港地)の中で、厳島が重要視されていたのか?その理由は厳島が『天然の良港』であったという地理的理由にありました。当時の航海は、現在のように船の構造が緻密ではなく脆弱なものでしたので、陸伝いで船を航行させるものであり、強風や波浪で船が破損・転覆する前に、風除けや波が穏やかになるまで船を避難させることが出来る寄港地へ逃げ込むというものでした。また瀬戸内航路内は(現在でもそうですが)、潮流の変化が激しい海路であり、船を安全に避難させるには、厳島は最適な避難場所でした。
 厳島の南側(四国側)は、岩で覆われた断崖が乱立している上、風が強く波も荒い海域でしたが、反対方向の『北側(広島県側)・つまり神社側』は、潮流の変化が殆んど無く、風・波も穏やかであったので、『船の寄港地としては最適な海域』でした。
 厳島(北側)は、何故経済拠点の島となりえたのか?それは潮流が激しい瀬戸内を行き交う船にとっては、『最適の寄港地であったから』という地理的好条件に恵まれていたからであります。恐らく天才・平清盛もその地理的好条件を知っていたからこそ、厳島神社を手厚く保護したと思われます。

元就と晴賢の富の島・厳島を巡っての争奪戦

 戦国期には、大内氏がその経済拠点・厳島を支配し、大陸との交易を盛んに行ったことにより、莫大な富を得ていました。先述のように、周防長門を本貫としていた大内氏ですが、両国は決して裕福な穀倉地帯ではないのに、大内氏が中国地方・北九州まで広範囲に及ぶ勢力を持ち、本拠地・山口を「西の京都」まで繁栄させることができた要因は、「厳島」を制し、大陸との交易から得られる莫大な経済力であったと言われています。事実、山口市にあった大内館跡から大陸渡来の陶磁器や銅銭8万枚が発掘されており、当時の大内氏が握っていた富の大きさが判明しています。
 1551年、その繁栄を謳歌する大内氏で内紛・「大寧寺の変」が勃発。大内氏当主・義隆は、重臣・陶晴賢(当時:隆房)の謀反に遭い、自刃します。晴賢は大内氏の実権を掌握し、傀儡当主として豊後国(現:大分県南部)の有力大名・大友義鎮(宗麟)の実弟で義隆の甥にあたる晴英(大内義長)を迎えました。しかし、旧主を討った晴賢に反発する勢力が多く存在し、特に義隆の姉を正室としていた石見国(現:島根県西部)の三本松城を拠点とする有力国人領主・吉見正頼が1553年10月、晴賢に対して公然と抗い、大内氏の事実上統治者である晴賢は吉見攻めをはじめとする家中統制に忙殺されることになります。
 上記の大内氏内部分裂を好機と捉えて勢力を伸張してきたのが、安芸の一国人領主から同国の戦国大名となっていた毛利元就であります。「大寧寺の変」当初、元就は晴賢に加担していましたが、1553年、備後国(現:広島県東部)の旗返山城の領有権を巡って元就と晴賢が対立したのが決定的になり、元就は陶(大内)氏と戦うことを密かに決意。そして、1554年(厳島の戦いの前年)5月12日、晴賢が吉見攻めに苦闘しているのを知っていた元就は、毛利従う安芸備後の国人領主の軍勢約3千を率いて、安芸国内の大内氏の拠点であった佐東銀山城(広島市安佐南区)・草津城(広島市西区)・己斐城(広島市西区)・厳島の対岸にある桜尾城(廿日市市)を僅か1日という電光石火の速さで攻略し、桜尾城を得た元就はその勢いを駆って、遂に厳島も瞬く間に支配下に治めました。何と元就は、晴賢に対して兵を向けた5月12日の1日間で、4つの城と厳島を支配下に置いたのであります。これほどの成果を挙げた要因として、旧主を討った晴賢の求心力の無さによる大内氏内の統制の脆さということもあったでしょうが、策略家・元就の事前の根回し(調略)の功績もありました。
 長く大内氏に臣従し、同氏が支配下に治めていた厳島が物流経済拠点であったことは、元就も熟知しており、以前から厳島に拠点を置く有力商人たちに酒などを進呈し、根回しを行っていました。この段取りの良さが功を奏し、元就は調略(外交交渉)によって厳島を無傷で手中に治め、島内北西にあった山城・宮尾城を改築し、大内軍の逆襲に備えています。
 先日まで、味方であった元就の不意打ちにより、大内氏の経済拠点であった厳島を奪取された晴賢は、当然激怒。1554年6月、厳島を毛利から奪還するため家臣の宮川房長を大将に3千の兵(のちに7千)を派遣。しかし、先手を制した毛利軍3千が折敷畑(明石)で宮川派遣軍を撃破しています。
 折敷畑での敗戦を味わった晴賢は、自ら大軍を率いて厳島を攻略することを決意。1555年8月下旬、吉見攻めを中断(正頼と和睦)した晴賢は、同年9月21日に周防長門・北九州からの軍勢2万(軍船約5百)を率いて厳島へ出陣。翌22日には厳島へ着陣し、塔の岡(豊国神社の五重塔付近)に本陣を構え、毛利方の防御拠点・宮尾城(守備兵約5百)を包囲しました。先述のように晴賢の軍勢は2万を超える大軍であったので、島内では本陣である塔の岡を中心として、弥山まで及ぶ布陣となり、海岸線は軍船で埋め尽くしたものとなったそうです。早速、晴賢は宮尾城を攻撃しましたが、毛利守備軍5百もよく戦い、落城寸前まで追い込まれながらも、本戦(10月1日)まで落城はしませんでした。
 24日、晴賢率いる大軍が厳島へ上陸したという急報を受けた元就は、配下の4千の兵(軍船約130)を率いて、対晴賢軍の前線基地となっていた草津城に本陣を構えました。次いで28日に毛利軍は草津城を出て、厳島の対岸にある地御前(廿日市市)まで進軍しています。そして同日には、瀬戸内に巨大な勢力を誇っていた『村上水軍(軍船300)』が毛利方として参陣しました。これにより「厳島の戦い」の役者と舞台が整ったのであります。30日夜、暴風雨の中、村上水軍の助力を得た毛利軍は3手に分かれて密かに厳島へ渡航し、元就率いる第一軍は厳島東側にある浜辺・包ヶ浦に上陸に成功、そのまま晴賢の本陣裏にある山地・博奕尾へ向けて進軍します。
 毛利第二軍(大将:元就の三男・小早川隆景)は軍船を率いて、厳島西側から大きく迂回しつつ、厳島北岸を警備する晴賢の軍船には「晴賢殿のお味方をするべく、筑前(現:福岡県北部)から参上した」と策略を以って、厳島神社の大鳥居付近まで進入。遂には厳島へ上陸しました。暴風雨の中、以上、第一軍と第二軍の行軍により、毛利軍は晴賢軍を挟撃する体制を整えました。
 毛利第三軍となった村上水軍は沖合で待機し、毛利軍の挟撃によって沖へ逃げて来るであろう晴賢軍を待ち伏せする布陣をとりました。そして、10月1日早朝、毛利軍は晴賢の大軍に対して奇襲を敢行、宮尾城の守備兵も毛利奇襲軍に加勢しました。突然周囲から毛利軍によって奇襲された狭い厳島で身動きがとれない晴賢軍は大混乱に陥り、軍船で島外から脱出を図りますが、村上水軍により海上への出口は封鎖されていました。
 島内と沖合から包囲された晴賢軍は大した反撃もできないまま壊滅し、晴賢も自刃。また晴賢に従っていた大内氏重臣であった弘中隆包などを含む4,780人にも及ぶ将兵が戦死するという、毛利軍の圧勝に終わりました。これにより「信仰の島」『経済拠点の島』であった厳島の支配権は元就のものとなり、元就はその余勢を駆って、晴賢を失い弱体化した大内領(周防長門)へ侵攻計画を開始、厳島の戦いの2年後の1557年、遂に元就は大内義長を討ち、周防長門を攻略。毛利氏は安芸備後・周防長門の4ヶ国を治める中国地方の大勢力へと急成長を遂げました。「経済拠点・厳島争奪戦」の勝利が結果的に、毛利元就を中国地方の雄へと飛躍させたことになったのであります。

 

 厳島の戦いは飽くまでも、『元就と晴賢の厳島争奪戦であった』のであり、物語上のように晴賢が元就の巧妙な罠に掛って厳島へ行ったのではなく、晴賢が厳島を元就から奪取するべく自らの意志で向かった結果、当時瀬戸内海を事実上支配下に置く『村上水軍』を味方に付けた元就に敗れたというのが史実なのであります。元就にとって村上水軍を味方に付けたというのが、厳島合戦の大きな勝因であったのですが、何故、村上水軍が厳島の勝敗を左右するほどの大きな存在感があったのか?その詳細は次回の記事で紹介させて頂きたいと思います。