有名な桶狭間の戦いの真相とは?

西暦1560年6月、前年に混戦極めた同族争いを制し尾張国(現:愛知県西部)を手中に治めた織田信長(当時27歳)が、駿河遠江国(現:静岡県)と三河国(現:愛知県東部)を領し、「東海道一の弓取り」と謳われた有力戦国大名・今川義元(42歳)を討ち取った『桶狭間(別名:田楽狭間)の戦い』は、日本三大奇襲(他の2つは河越夜戦と厳島の戦い)の1つに数えられ、戦国史上でも有名な合戦の1つであります。この桶狭間での勝利が契機となり、信長は勇躍して東海畿内などを制し、後に天下の覇者として君臨してゆくことになるのですが、そもそもこの桶狭間の戦いは何故起こったのでしょうか?

 

 長らく定説になっていた桶狭間の戦いの発端ですが、駿河・遠江・三河の3国の太守・今川義元が、衰退した室町幕府に代わって「天下統一(上洛)を果たすため」に大軍を催し、西上を開始、京都の道筋途中にある信長を討滅するために尾張に攻め入ったのが以前まで定説となっていました。しかし、この「義元上洛説」は近年否定されており、『別の目的』によって義元が尾張に攻め入ったことが定説になりつつあります。
 『別の目的』とは何か?それは1560年当時、織田今川両陣営の拠点が入り組んでいた『知多半島(厳密に言えば「常滑一帯」)の完全制圧目当て』に義元は大軍を発し、知多半島の丁度「付け根部分」に当たる桶狭間付近で信長軍と激戦となったのが「桶狭間の戦い」の真相であります。では何故、織田信長と今川義元は尾張国に属する『知多半島』を巡って攻防を繰り返していたのか?という疑問で出て来るのですが、今回の記事ではこの点について紹介させて頂きたいと思います。

当時の知多半島(常滑)は国内有数『産業地帯』であった

 現在の地理で言うと愛知県知多半島は西岸に位置する常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が2005年2月17日に開港され、新東京・関西と並んで日本人にとっては国内外の重要な出入口の1つとなっていますが、信長や義元が攻防を繰り返していた頃の知多半島に在する常滑は違う意味で、両人にとっては重要な場所でした。それは常滑が古くから続く常滑焼が生産される『窯業(産業)』で繁栄した地帯であり、また伊勢湾に面し『海上交易の重要拠点』であったのです。
 常滑を中心に知多半島で焼かれる『常滑焼』は、現在でも市内に土管坂と呼ばれる周囲が常滑焼に囲まれた坂が存在し往時の窯業が盛んであった名残りがありますが、遡れば既に平安末期から既に窯業が盛んになっており、後には備前焼(岡山)・信楽焼(三重)・瀬戸焼(愛知)などと並ぶ「日本六古窯」の1つにも数えられた国内有数の窯業であり、平安期(1100年頃)には既に3000基もの穴窯があったと言われ、先の六古窯の中でも最大規模を誇っていました。
 その常滑焼は、知多半島という海上交通の便を活かし伊勢湾(太平洋)を経て日本各地に輸出され、鎌倉期には遠く中国地方の安芸国(現:広島県西部)までにも送られていたことが発掘調査で判明しています。安芸隣国には備前焼があるにも関わらず、遥々尾張の知多半島から常滑焼が安芸に入って来ている点を鑑みても、往年の常滑(知多半島)が有していた「産業力」と「海上交通の良さ」が知ることができます。

産業・流通の要衝・知多半島を巡っての織田と今川の抗争

戦国期にはその知多半島の領有権は信長の父・信秀が獲得しました。信秀という人物は「尾張の虎」と周囲から畏怖されるほどの勇猛な名将であると同時に、農業(米)財政を常としていた当時にあって、「経済(銭)の力」をいち早く着目した傑物でした。
 信秀はまず知多半島と同じく伊勢湾の海上交通の要衝であり重要な経済拠点でもあった「津島」「熱田」の両港を支配下に組み込み、織田氏奉行職という決して高貴な家柄(織田弾正忠家)でないにも関わらず、織田勢力を拡大、「産業」「海上交通」の重要的拠点である知多半島も支配し、更に東隣国の三河にも食指を向け、三河松平氏(徳川家康の実家)やその親玉である駿河の今川氏と抗争を繰り広げ(小豆坂の戦いなど)、最終的には三河領有権は今川氏に奪取されますが、一時的ながらも三河安城まで領土を広げています。織田・今川の抗争と言えば、信長と義元の桶狭間の戦いがどうしても有名になってしまいますが、その以前から織田・今川の対立はあり、信長の初陣も今川氏との戦い(吉良大浜の戦い)でした。

 

 1551年、信秀が病死、嫡男である信長(19歳)が家督を相続し織田氏当主となり信秀が心血注いで築き上げた領国や湊などの経済基盤、そして対今川戦前を受け継ぐことになってのですが、以前から奇行が多く周囲から「うつけ者=馬鹿者」と嘲笑されていた信長に反発する一族・有力家臣が多く、自勢力内で反乱が勃発。信長の主家筋に当たり尾張守護代である清洲織田氏の当主・信友、信長の実弟である信勝(信行)、庶兄の信広も信長に対し反発、信長の一番家老である林秀貞(通勝)や猛将・柴田勝家も信行方となってしまう始末でした。信長は強敵・今川氏と戦う以前の問題として、反抗してくる兄弟を含める一族や有力家臣への対処に苦闘することになったのであります。因みに、信長の生涯は家臣や盟友(浅井長政など)からの反乱や裏切りによる合戦に埋め尽くされていますが、その幕開けが父・信秀から家督相続した直後に発生した一族や有力家臣たちとの骨肉相食む紛争でした。
 上記の信長を取り巻く一族・家臣との紛争の波及は、信秀が遺してくれた知多半島の領有権までにも悪影響を及ぼすようになりました。即ち、知多半島の統治拠点かつ東国の脅威・今川氏の抑え拠点でもあった「鳴海城(名古屋市緑区)」「大高城(同市同区)」「沓掛城(豊明市)」などが、今川方に寝返ったのであります。この出来事は信長にとっては、織田氏の経済流通拠点であり伊勢湾に面する知多半島の支配力が大いに弱まったばかりでなく、父・信秀が遺してくれた「津島」「熱田」という伊勢湾上の2大経済拠点の支配権も今川氏に脅かされた状況に陥った痛恨事となりました。
 鳴海城など知多半島の重要拠点が織田氏から造反した後の1553年に信長は800の兵力で鳴海城攻略を行いますが失敗しています。この時期の信長は対立する一族や家臣を討伐することで手一杯の状況であり、とても知多半島の城砦群を取り戻す余裕はない状態でした。
 翌1554年には、今川氏が知多半島攻略を確固にするために築いた「村木砦(知立市)」を攻略するために信長は出陣を決意。心服していない自身の筆頭家老である林氏の協力(出陣)拒否などがありつつも、居城の那古野城の留守を信長の舅にあたる美濃国(現:岐阜県南部)の戦国大名・斎藤道三からの援兵に依頼し、信長自ら(限られた)総力を挙げて村木砦へ出陣、総大将である信長自身も鉄砲を撃ち力戦、多くの犠牲者を出しながらも村木砦を攻略に成功しています。しかしながら、鳴海や大高の諸城を攻略するまでの余力はなく、知多半島の領有権を巡っての織田vs今川のバトルは信長不利が続いている状態でした。
 東方の今川氏から追い詰められている信長に更なる問題が発生します。1556年、当時信長の唯一の後ろ盾であった美濃の斎藤道三が息子・義龍の謀反(長良川の戦い)によって敗死し、義龍が美濃の戦国大名となり、信長と続いていた同盟関係を破棄してきたのです。信長は東の今川に加え、北からは美濃斎藤氏の重圧も受けるようになってしまったのです。そして、この信長の盟友・道三死去が発端となり、同年には信長の実弟・信勝、それに加担する林秀貞、柴田勝家が信長に対して完全蜂起し、「稲生の戦い」が起こります。正にこの1550年代は信長にとっては「内憂外患」「四面楚歌」の危機的状況であったのです。信長の功績を著わした『信長公記』には、当時の状況を『信長が苦労している時、彼を援ける者は稀であった』とような意味合いで書かれています。因みに後の1570年代前半も大勢力となった信長は武田信玄や本願寺勢力などの敵勢力に周囲を包囲された危機的状況(信長包囲網)に陥りますが、その都度、信長はこれらの死地を脱出していますので、凄まじい不屈の精神の持ち主であったことがわかります。

 

 信長が反発する弟・信勝や清洲織田氏などの一族、有力家臣を制し、漸く尾張で戦国大名として覇権を確立すのは1559年でした。そして同年頃には、信長にとって知多半島領有の楔になっている今川方の鳴海・大高両城を牽制・包囲するために、鳴海城に対して丹下砦・善照寺砦・中島砦、大高城に対しては鷲津砦・丸根砦を構築し、今川方に対抗しました。この敵方の城を砦など築き包囲する作戦を『付け城作戦』と呼ばれますが、後年、全国区規模で活躍する信長もこの「付け城作戦」を、湖北の小谷城包囲など至る所で実施しております。
 この信長が対抗策として行った「付け城作戦」によって、今度は今川方にとっては折角得られた知多半島完全制圧のための橋頭堡を失う恐れが出た状況になりました。この状況に対して講じた今川氏の事実上の大将・今川義元の作戦こそが駿河・遠江・三河の三国の総兵力(約2万5千)を大動員して、長年織田氏と争ってきた知多半島領有権の完全獲得、更には信長を屈服されるために軍事行動を起こすことでした。これが1560年、『桶狭間の戦い』の始まりとなります。

逆転勝利した信長の力の源泉は「経済力」

 今記事では桶狭間の戦いが起こった経緯、つまり「織田vs今川の知多半島争奪戦」を紹介させて頂くことを主眼としているので、戦いについての詳細は割愛させて頂きたいと思っています。また皆様よくご存じの有名な桶狭間の戦いについて愚鈍の筆者がわざわざしゃしゃり出て、「信長は圧倒的不利な戦況の中、少数の兵力で今川本陣に奇襲を掛け、敵総大将・今川義元を討ち取った」ことなどについて記述させて頂くまでもないとも思っている次第でございます。
 ただ今記事の纏めのような格好を述べさせて頂くと、戦略的に見ても信長は義元よりも不利であったのは間違いありません。東と北に今川・斎藤という有力大名と敵対している四面楚歌の状況に加え、桶狭間の前年(1559年)にようやく反発する一族・家臣を抑え、尾張の新人戦国大名としての地位を確立したばかりの当時の信長にとっては、駿河を含める3ヶ国を有し、北の武田信玄・東の北条氏康と同盟関係(甲相駿三国同盟)で後顧の憂いを断っていた今川義元は難敵中の難敵でした。
 その不利的戦況に追い込まれていた信長が義元を討ち、結果的に今川氏を尾張(知多半島争奪戦)から完全撤退することが出来た要因の1つとして挙げることができるのは、信長が当時には珍しい『足軽兵(常備軍)』を、支配下にある潤沢な経済拠点(津島・熱田)から得られる莫大な経済力で雇用していたことでしょう。
 当時の他の戦国大名は、常時は農業を生業とし、戦時は兵として徴集される「農民兵」を軍の主体としており、これは信長の宿敵・今川氏もこの「農民兵軍団」を母体としていました。農民兵は合戦時のみに大名から徴集される存在なので普段から金銭で雇用する必要がなく、大名たちにとって農民兵を使うということは経済的負荷が少ないという利点がありました。しかし、普段は農業に勤しんでいる農民兵であるので、日常的に本格的な軍事調練などを受けておらず、戦に対するモチベーション(士気)も低いという欠点もありました。
 それに対し「足軽兵」というのは、大名の城に「常備軍」として駐屯させるので、それらを養うための金銭(つまり俸給)が必要になり雇う側の大名にとっては経済的負荷が大きいものでしたが、足軽兵は常に城に居るので、軍事訓練をしっかり受けるころができ、戦意も高い戦闘集団となっていました。つまり現在でいうと足軽兵は『職業軍人』のような存在の精鋭軍であります。
 信長はこの少数精鋭の『足軽軍団』を配下に従えていたからこそ、桶狭間で大軍(農民兵軍団)を従えていた今川軍を撃破できた点が大きいと思います。信長が約2千(諸説あり)の精鋭部隊を率いて清洲城を出撃したのは5月19日早朝であり、その後30kmほどの道程を半日足らずで走破し、知多半島近くの桶狭間山に休息していた義元本軍を急襲し、粉砕しているのですから、信長が従えていた軍団の質の高さがわかります。今川軍も「寄親寄子制度」という軍事系統を確立した中世的強豪軍団でしたが、信長の『足軽軍団』がその上手を行っていたのであります。
 信長が義元の大軍を打ち破ることができた少数精鋭の軍団を普段から養うことができた唯一の理由は、強固な2つ経済基盤(津島・熱田の両港)を持っていたからであり、それによって最終的には信長のもう1つの有力な経済基盤となっていた「知多半島」を今川からの侵略から護ることができたということであります。