信長が生涯かけて行った「引っ越し政策」

 織田信長という人物は、現代でも最も高い人気度を見てもわかるように、非常に魅力に富んだ戦国武将の1人であることは間違いありません。その中でも、特に「信長」「城」との関係性は極めて面白いものであり、同時代の他の上杉謙信・武田信玄・毛利元就たち他の有名武将と「城」との関係性とは明らかに一線を隔しています。
 後者の謙信や信玄、元就といった幕府や寺社などを尊重する旧体制主義者たちにとって、「城」とは飽くまでも「領国統治の拠点」「軍事(防御)施設」「大名の居住施設」という存在のみであり、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。そして、謙信は「春日山城」(新潟県上越市)、信玄は「躑躅ヶ崎館」(山梨県甲府市)、元就は「吉田郡山城」(広島県安芸高田市)を本拠地とし、どのように自勢力が拡大、周囲の情勢が変化しても、(他国への遠征期間は別として)、終生自分たちの本拠地を移転することはありませんでした。
 その反面、信長という革新者は「城」という存在を、先述の軍事施設や領国統治の拠点といった存在意義に加え、『迎賓館』、『美的建造物(権力者のシンボル)』、『テーマパーク的存在(これは林修先生案)』、『商業都市の根幹』といった意義も加味してゆきました。そして、何よりも謙信たちと違った点は、信長は49年という生涯の中で、自勢力や刻々と変化する情勢に伴って、戦略的かつ計画的に『5回(6回目は頓挫)も本拠地を移転している』ということであります。即ち、先ず那古野城(愛知県名古屋市)からはじまり、次いで『清洲城(同県清須市)』、『小牧山城(同県小牧市)』、県が代わって『岐阜城(岐阜県岐阜市)』、隣県の『安土城(滋賀県近江八幡市)』、最後は、信長が本能寺の変で横死してしまい実現が頓挫してしまいましたが『大坂城(大阪府大阪市)』、現代の我々でも生涯で5回以上も住居を移転することや、企業が転々と本社を異動させるのは珍しいと思いますが、信長は戦国期当時に、我々よりも大規模で戦略的な『引っ越し』を行っています。
 余談になってしまいますが、この信長の本拠地引っ越し回数に匹敵する戦国武将として、奥州の英雄・伊達政宗がいますが、彼の場合は、戦略的というより当時の権力者・豊臣秀吉からの「懲罰的原因」の意味合いの方が強いものがあります(最終的に「仙台城(青葉城)」に落ち着きますが)。
 歴史学者でありテレビで林修先生と面白い遣り取りをされる本郷和人先生は、『これほど本拠地を引っ越しした戦国武将は織田信長のみ』と仰っています。星の如く存在したであろう戦国大名たちの中で、何故信長のみが複数回の『引っ越し政策』をとり行ったのか?今回はこのことについて少し紹介させて頂きたいと思います。

「那古野城」次いで「清洲城」への引っ越し政策

 信長の最初の本拠地は「那古野城」であり、現在の名古屋城の二ノ丸付近に存在しており、以前は信長の生誕地と伝えられていました。元々那古野城は、信長の父・信秀が計略で今川氏豊(駿河今川氏の一族)から奪取した城でしたが、信長わずか2歳〜4歳の幼少期(1536年〜38年頃)に父より城主に任命されました。それから信長19歳(1555年)で一族でもあり本家筋に当たる清洲織田氏を滅ぼし、「清洲城」を本拠に移転するまでの19年間は、那古野城を本拠としていました。青年信長の有名な逸話である奇行乱行により、「尾張の大うつけ(バカ)者」と周囲から嘲笑を買っていたのは、この那古野城時代であります。
 先述のように、次に信長が本拠地にしたのは、「清洲城」であります。1555年、既に父・信秀の後を継いでいた19歳の信長が、当時の清洲城主の織田信友を滅ぼして、城を奪取し、次の本拠としました。信長が清洲城に本拠地に移転した理由として、同地は、尾張国のほぼ中央に位置し、守護代として織田氏が尾張に拠点を置いて以来の「守護所」として発展し、伊勢街道・美濃路(鎌倉街道)が合流する「交通の要衝」であり、商業都市として更なる発展が見込めたからだと言われています。事実、信長は清洲城を大改築し、城下町を整備していたと言われます。
 武田知弘先生の『「桶狭間」は経済戦争だった(青春出版社)』に拠ると、清洲城は『南北2.7キロ、東西1.4キロもの総構(そうがまえ・筆者注:城郭都市)を持つ巨大な城下町であった』・『そして信長の居城当時からすでに一辺200メートルにもおよぶ可能性がある巨大な城館があったことがわかった。(中略)その城館の南北には30〜50メートル四方の建物がいくつか建てられていた。(中略)そして城下町には家臣団の屋敷地が幹線道路沿いに展開し、不完全ながら家臣団の集住化が進んでいた』(以上、第1章より)と書かれてあります。
 信長は、この清洲城時代に信長政策の象徴的である「楽市楽座(市場開放)」で経済を活性化させ、その資金を元手にして常備兵を集め「兵農分離」の初期段階を既に実施していた可能性があります。正に、後の天下の覇者になる飛躍の素を醸成していたのが、この清洲城時代であったかもしれません。因みに信長が一躍、戦国の世に勇名を馳せた1560年の「桶狭間の戦い」の際には、この清洲城から出陣しています。この戦後、三河岡崎城の松平家康(後の徳川家康)と結んだ盟約「清洲同盟」の地となり、また信長が本能寺の変で斃れた1ヶ月後の1582年7月、巨大な織田政権の後継者を決める「清須会議」が開かれた場所もこの清洲城であり、軍事的のみでなく日本史の転換期の舞台となった城でもあります。

 

 信長が「那古野城」および清洲城を本拠としたそれぞれの期間。

 

・那古野城:1536(or38)年〜1555年の「19年間」
・清洲城:1555年〜1563年)の「8年間」

日本初の石垣造り「小牧山城」へ本拠移転

 桶狭間の戦後、勢いに乗る信長は、隣国・美濃侵攻に着手するようになり、その戦略に沿って、また本拠地を移転させました。信長第3番目の本拠地が、清洲より北方にある「小牧山城」であります。1563年7月、信長は本格的に美濃国の攻略に専念できるように、濃尾平野の北方に位置する標高86mの小牧山に城を築き、ここを本拠としました。以前は、小牧山城は戦時急造の砦程度の小規模城郭と考えられていましたが、近年の先生方の研究や発掘調査の結果、小牧山城は日本国内で『初めての石垣造りで、いくつもの曲輪が存在した近世城郭』であったことが判明し、城の南側から頂上の本丸まで道幅約5mの直線『大手道』が通っていたこともわかっています。同じ南側では、城下町が整備されていました。
 信長は小牧山城でも大規模な築城を行った上、清洲から移住してきた家臣団や住民を集住させる城下町を形成して、内外に自身の「経済力の強さ」をアピールしたのであります。竹村公太郎先生・歴史地形研究会の名著『地形から読み解く日本の歴史(宝島文庫)』に拠ると、小牧山、次いで同地に城を構えた信長の優れた戦略性を以下の通りに説いておられます。

 

 『小牧山がある濃尾平野は、古代に東海湖と呼ばれた巨大湖があった所に、土砂が堆積されて形成された低地である。その中央に位置する小牧山は、周囲を見下ろす独立丘陵である。小牧という地名は古来、小牧山まで海が迫っており、山を目印にした船乗りが帆を巻いたというのが由来である。低地が広がる濃尾平野に浮かぶ、シンボルマークのようであった小牧山に、後の安土城のプロトタイプというべき幅広い直線の大手道や石垣造りの最新技術を用いた城は、「天下布武」を掲げ、日本統一への意欲を示す信長の武威を示すのに、十分な効果があったと思われる。
 小牧山城での江戸時代の城下町を先取りする区割りや、馬廻りの兵力を城下へ常駐させる斬新な政策は、敵対する美濃の斎藤家に動揺を与え、東美濃衆の寝返りを促している』
(第1章より)

 

 筆者が勝手に考えるには、信長が小牧山に本拠移転を行う前の同地は、誰からも特に注目を受けない只々侘しい村落であったのではないでしょうか。そこに信長が美濃攻略という戦略を打ち出し、当時の尾張の中心地の清洲から北の小牧山に本拠を移してきたことにより状況が一変。大規模な城郭と城下町が形成され、街として発展してゆきました。信長が小牧山城に本拠を移転した第一の理由は、先述のように「美濃攻略」達成のためでしたが、それに伴って『小牧山という地を経済的に発展させる』という、結果的に『デベロッパー』の役目も信長は果たしたのであります。
 信長念願の美濃攻略は、小牧山城に移転してからの約4年後の1567年9月に達成され、信長は次の本拠を美濃国の岐阜城(稲葉山城)に移転させます。信長4回目の本拠地となります。因みに、小牧山城は信長が岐阜城に移転した後、廃城されましたが、その17年後に信長政権の後継者である羽柴(豊臣)秀吉と信長の盟友であった徳川家康、信長の次男・信雄(のぶかつ)の間でおこった合戦、「小牧・長久手の戦い」の舞台となり、その要の地となった小牧山城址は、家康の素早い軍事行動の結果、徳川軍の本陣となり、徳川・織田連合軍は、大軍を擁する羽柴軍と対等に張り合える結果となりました。先の清洲城といい、この小牧山城といい、信長所縁の城は、信長死後も重要な舞台となっているのが不思議であります。

 

 信長が小牧山城を本拠とした期間:1563年〜1567年の「4年間」

天下の要衝・「岐阜城」へ本拠移転

 1567年、信長は宿願であった美濃国攻略を果たし、小牧山城から美濃斎藤氏の本拠であり、美濃国の中心地であった稲葉山城へ本拠を移転させました。そして、稲葉山城とその城下町・井ノ口を、信長の学問の師である沢彦宗恩禅師が起案した『岐阜』と改名しました。「岐阜」という地名の由来については、古代中国の周王朝の文王が「岐山」に起って天下を定めたという故事と、儒教の開祖・孔子の故郷「曲阜(山東省)」から1字ずつ採り、岐阜となったと言われています。現在でも「岐阜県」として名を遺していますが、この地名にも信長の遺志が宿っているのであります。

 

 稲葉山城改め岐阜城を本拠と定めた後の信長は、同時に信長の代名詞「天下布武」の印を用いるようになり、天下の覇者へ勇躍してゆきます。俗に『美濃を制する者は天下を制する』と言われてましたが、その証左として、信長が岐阜へ本拠地を移転させた1567年当時、彼は34歳(1534生)の壮年期であり、1582年に49歳にて没しますが、その僅か15年間に、それまで尾張・美濃の2ヶ国のみを領する一戦国大名が、駆け足で畿内・中国・北陸の各地方を統一する覇者の座へ昇り詰めたのですから、岐阜(美濃国)を得たことが信長にとって大きな力になったことは間違いありません。
 岐阜を有する美濃国は、戦国期〜江戸中期の石高で表すと『58万石〜60万石』という天下有数の米所である上、精強な兵が揃い、日本の中央に位置し、有名な関ヶ原には「中山道」「伊勢街道」「北国街道」が合流する正に『天下の要衝』でした。信長は岐阜城を本拠地にすることによって、美濃が元来有する豊かな生産力と交通・物流の要衝を抑えたのであります。

 

 岐阜城へ移転した翌年の1568年9月7日、信長は、先の1565年に畿内の有力大名・三好三人衆と松永久秀(弾正)によって殺された室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・義昭を奉戴して、4万を超える大軍を率いて『上洛』を開始。上洛の途上にあり、信長に敵対した南近江国(現:滋賀県南部)の六角氏を圧倒的な勢いで同月12日には降し、25日には京都の東口である大津まで進軍、そして28日、三好三人衆を蹴散らし、松永久秀を降伏させ、信長は京都に入りました。僅か21日の間で信長は上洛を成功させ、他の戦国大名よりも天下に向けて一歩前進した形となりました。

 

 信長は、岐阜城の大改築を行い、「軍事目的の城」のみではなく、『迎賓館』的要素を含んだ『見せる城』として変えていきました。岐阜城がそびえる金華山の麓の居館を大豪邸に造りに仕立て上げ、公家の近衛前久(さきひさ)などの特別な客人をそこで饗応しています。またその折には、現在でも岐阜県の名物である「長良川の鵜飼い」を見せ、信長自ら接待したとも伝わっています。信長は宣教師のルイス・フロイスが書いているように、自分の家臣に対しては傲慢かつ暴力的な態度を取っていたことが多かった事で有名ですが、客人に対しては自ら饗応するような細やかな気配りも行っています。

 

 先述の信長上洛の折り、「4万を超える大軍」と記述させて頂きましたが、信長の故郷・尾張国、次いで岐阜城へ本拠を移転し美濃国を抑えたことにより、それほどの大軍団を組織できるほどの「経済力」を既に有していたのであります。信長の最も有名な政策『楽市楽座』も岐阜城下町(加納)で大々的に行っており、その際(1568年)に利用された本物高札(制札)も文献として遺っています。先述の通り、美濃国は中山道をはじめ諸街道が合流する「天下の要衝」であり、その中央に位置する岐阜城とその城下町は経済流通の要であり、それに加え信長が楽市楽座によって市場開放を行った結果、信長の下に大軍を擁することが可能な富が集まって来るのは自然の道理であります。

 

 信長は1576年、畿内や北陸など西国や北国に自勢力が拡大してゆくに伴って、岐阜城から今度は近江の『安土城』へ本拠を移転させます。この安土城が信長最後の本拠地となるのですが、それでも岐阜城の重要性は十分に認識しており、岐阜城は最も信長が信頼した彼の長男である信忠に譲り、彼に美濃・尾張という織田氏の根幹地の統治を任せています。

 

 信長が「岐阜城」を本拠地とした期間:1567〜1576年の「9年間」

「湖」「陸」の交通ルートを抑えるための「安土城」

1576年1月、信長は近江国の南部にある安土山(目加田山)に、重臣の丹羽長秀を総奉行として、壮大な城の築城を開始しました。即ち信長の引っ越し政策の総決算と言うべき「安土城」であります。当時の信長の勢力は絶大なものがありました。1573年には越前国(現:福井県東部)の朝倉氏・北近江の浅井氏を滅ぼし、同年には信長自らが推戴した室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放、畿内中心部を把握。1575年6月には、戦国最強軍団と全国の諸大名から畏怖された甲斐武田軍を三河国長篠設楽原の戦いで完勝し、最早本州で信長に対抗できる勢力を保持していたのは、摂津国(現:大阪府北部)の石山本願寺、中国地方の毛利氏、北陸の上杉氏ぐらいのものでした。
 畿内をほぼ手中に治めた信長は、それまで本拠地であった美濃国の岐阜城では東方に拠り過ぎていると考え、当時の政治の中心地であった京都の隣国である近江に本拠地を移転させることに決め、安土城を次の本拠地に定めました。1579年5月には、安土城の天守閣(天主閣とも)が完成したので、信長はそこへ移り住みました。安土城の天守閣について、様々な史料や文献で共通して記述しているのは、「5重6階地下1階、約30mの高さもあり、最上階は金色、その下の階は朱色の八角堂、屋根は金箔の鯱瓦(しゃちがわら)となっていた」という、それまでの日本には皆無であった豪華絢爛かつ荘厳な建造物であったということであります。宣教師のルイス・フロイスも自著の『日本史』の中で、『テンシュ(天守)と呼ばれる塔は、気品があり壮大な建築である』と安土城の天守閣を絶賛しています。
 信長は、尾張国の小牧山城築城の経験を生かして、安土城でも幅6m、直線180mにも及ぶ広く長い「大手道」を造り、その沿線に羽柴秀吉や前田利家などの屋敷を構えさせました。また城下町の整備にも力を注ぎ、例によって楽市楽座を設け、町人に対する減税政策などを行っています。
 信長死後、安土という土地は政治的価値を失ったことで、城下町も徐々に寂れてゆき、1585年、当時の天下人・羽柴(豊臣)秀吉の一門・秀次が安土の隣地・八幡山(現:近江八幡市)に城を築き城下町を形成、安土の町民たちも八幡山城下町に移転していったので、安土の城下町は消滅したことにより、現在の安土町は静かな地方町になっていますが、信長存命の安土城下町も清洲や岐阜と同様に殷賑を極めていたに違いありません。
 信長が安土城を築く前の同地は、目賀田氏という小豪族の小城と農村があった程度の規模であったと言われ、覇者・信長が本拠として大開発を行ったために、一躍、安土という土地の価値が騰がりました。小牧山城へ本拠を移転した時も同じでした。それまでほぼ未開拓に近い土地に近世城郭を築城し、大規模の城下町も造り上げて、その地を発展させてゆく。この信長の新本拠地移転および構築政策について、先出の歴史学者の本郷和人先生があるTV番組にご出演された際、『信長には「デベロッパーとしての才能」があって、自分の城を造ることによって、土地の価値をあげていった』と仰っておられ、その時、ご共演されていたカリスマ予備校師・林修先生も本郷先生のご意見に対して『お見事!』と言われ絶賛しておられました。デベロッパー戦国大名・織田信長、その面目躍如の総決算が安土城で発揮された感じであります。

 

 信長が近江の安土城に本拠地を移転させた理由として、先述のように「ほぼ畿内や北陸を制し、京都などを把握するため」や当時(1576年頃)、北国で未だに強大な力を誇っていた「上杉謙信が上洛を敢行した際の防衛ラインを築くため」といった戦略目的もあったと言われますが、他の理由として、畿内の中央に位置する近江国が有する『陸路』『琵琶湖(水路)』『交通の要』を完全に支配する目的もあったと言われています。先出の竹村公太郎先生著の『地形から読み解く日本の歴史』には、「安土城の真価」について以下のように紹介していますので重要と思われる部分を箇条書きで抜粋させて頂きます。

 

*陸のネットワーク編(『陸上交通を抑えていた信長 中心的役割を果たした安土城』
・『支配する版図の拡大に伴い、安土が中心的位置であったこと、かつ交通の要衝であったことがあげられる。畿内・東海へと通じる東山道、北陸へ通じる北国街道、伊勢へと通じる八風街道などが交差していたのである。』
・『信長は、近江を中心にして「陸のネットワーク」を押さえていたといえるのである。』

 

*水路のネットワーク編(『安土城の真価は、琵琶湖の湖上交通を考えない限り理解することはできない!』『琵琶湖を結ぶ湖上水ネットワーク』
『例えば羽柴秀吉に与えた長浜城、明智光秀の坂本城、そして信長の甥である織田(津田)信澄の大溝城など家臣にの居城を俯瞰(ふかん)して共通点に着目してみると面白い。いずれも平城であり、それぞれが交通の要衝にある。さらにはそれぞれの城が琵琶湖を背後にした構造をとっていること、そしていずれも場内に港を擁していたのである。それはつまり自由に琵琶湖内を船で行き来できるということであり、完全に信長勢力が琵琶湖の制海権を手中にしていたということであった。どこかの城が敵の攻撃を受けると、速やかに援軍が船で駆けつけることができる絶対的な連携が、完全に構築されていたのである。これこそが信長が築き上げた「湖上のネットワーク」なのである。』

 

(以上:『水陸の覇者・信長の思惑 安土を囲む琵琶湖上ネットワーク』より)

 

 上記のように、信長は近江でも安土に本拠を置くことによって『陸路』と『湖上』の交通の要衝を完全に把握していたのであります。信長2番目の本拠地・清洲城、4番目の岐阜城でもやはり「街道(陸路」の要衝を抑えることによって、「人や物資の流れ(経済力)」を自勢力に汲み取り、軍事的にも充実を図って勢力を拡大してゆきました。そして、1568年に信長が足利義昭を奉じて上洛に成功し、義昭が15代室町幕府将軍になった折、義昭は尽力してくれた信長に対して室町幕府の最高官職・管領や副将軍の位を褒美として与えようとしますが、信長はこれらの官職を拒否し、代わりに日本国内の流通・交通の要である『大津』『草津』『堺』の支配を義昭に認めさせました。このように、信長はいつも『如何にして交通の要衝を抑え、経済を発展させ、自勢力を強くしてゆくか』ということを考えており、この考えが活かされた1つとして、『那古野』『清洲』『小牧山』『岐阜』『安土』といった、その時々の情勢に応じて、本拠地を移転させ、城や城下町を新たに築き、経済を活性化させ、デベロッパーとしての才能を遺憾なく発揮したというのが、「織田信長の引っ越し政策」であります。

 

信長が「安土城」を本拠地とした期間:1579年〜1582年の「3年間」
 実は信長が全国展開した「本拠地引っ越し政策」には見本があります。それは信長の父・信秀であります。彼は尾張国内限定ではありましたが、引っ越し政策を行っています。先ず尾張の経済の要衝・津島港を抑えるために、「勝幡城」を本拠とし、次に「那古野城」、今度は津島と同じく尾張の経済の要衝・熱田を抑えるために「古渡城」を築城、同地へ本拠を移転。最後は三河の松平氏や駿河国(現:静岡県東部)の今川氏の防御策として「末森城」を築き、本拠としています。
 信秀もそれぞれの戦況や情勢に応じて本拠を移転させています。信長は父・信秀から経済の要を抑えるなどの戦略を学んでいますが、本拠地引っ越し政策も父から学んだものであり、それを全国規模に展開したのが信長であります。そうなると、信長が独創的というより、父・信秀の方が信長よりも遥かに独創的であり、青年信長は周囲から「うつけ者」と悪口を叩かれながらも父から諸事よく学んだ「物まね上手」であったと言える、と筆者は思います。