商業気質を持つ織田信長という傑物

 律令制度が興って以来、田畑から収穫される「米穀(租税)」が日本経済の根幹を成し、『農業経済主義』であった戦国期であるにも関わらず、織田信長が『商業=銭の力』を重視して、『商業経済主義』を打ち立てて、城下町の町割(都市設計)などを行い、そこに配下の武士や足軽(消費者)や多くの商工業者(生産者)などを城下に住まわせ、町全体を一大経済拠点として活性化させてゆきました。
 戦国期当時は、動員時期などに限界があった(農?期は動員できない)パートタイム的な兵力・「農民兵(半農半士)」が武田・上杉・毛利など有力戦国大名が抱える軍団の主戦力でありましたが、信長は城下町から得られた莫大な収入(銭)元手にして、現在で譬えれば職業軍人の元祖的存在である足軽兵(常備兵)をより雇入れ、常時動員可能な精鋭軍団を編成し、更には最新兵器・鉄砲も多く揃えることが可能となり、信長は一地方戦国大名から一代で天下の覇者まで昇り詰めてゆくことになります。有名な話ですが、信長が織田軍の旗印に当時の貨幣である「永楽通宝」を堂々と採用していていたという点を鑑みても、信長が如何に『商業=銭の力』を尊重していたことがわかります。
 上記の信長が実施した主に商業政策や軍事改革が、学校の歴史の授業でもお馴染みの『楽市楽座』・『関所撤廃』という自由経済政策の元祖と、武士(国人)=農業の大地主という曖昧な身分制を改良し、専業武士団の初期型を完成させた『兵農分離』であり、信長の後継者となった豊臣秀吉と徳川家康がそれらの政策を更に改良および全国展開してゆくことになって江戸期には、「士農工商」の身分制度や「幕藩体制」が完成、明治維新まで約250年間も営々と続く、世界史上類の見ない一大平和時代に繋がってゆくことになると思えば、信長政策の遺した業績は計り知れないほど多大でありますが、今回の記事では、その一部を紹介させて頂きたいと思います。

信長の「関所撤廃」と「楽市楽座」には先例がある

 信長が商業経済主義者であり、世間での商工業/経済を活性化させるために、現在でいうとことの売上税のみ納税させすれば、誰でも商売ができるという「楽市楽座」を大々的に実施したのは、先述の通りであり、この記事をお読み下さっている皆様もよくご存知のことだと思いますが、それ以外にも信長は世間で人や物資の往来の流れを良くする、ひいては経済活性化のために行ったのが『関所撤廃』と『道普請』、つまり現在でいう『インフラ整備』でした。そして、この信長流の道普請の功績が現在でも我々が普段、何気なく見ている風景にも繋がってゆくのですが、この事については次回の記事で紹介させて頂くことにして、先ず信長の代名詞にも匹敵する「関所撤廃」について少し触れさせて頂きます。

 

 実は信長以外の戦国大名も関所撤廃し、領内の物流活性化に努めており、その例として、いつも信長の引き立て役(やられ役)に回されてしまっている駿河国(現:静岡県東部)の名門・今川義元は在世当時は天下一級の能力を持つ戦国大名であり、内政・外交・軍事全般で優れた業績を残しているのであります。その証左として、義元は信長に先んじて、商工業者の保護や無用な関所撤廃などの商業政策を実施しているのであります。つまり、「関所撤廃=信長の専売特許」というイメージが定着していますが、それは間違いであり、信長の先輩戦国大名である義元のような名君も「関所を廃止したら、領内の人やモノの流れが良くなる」ということを十分解っており、その上で関所を廃止しているのであります。
 因みに、もう1つ信長が生み出したと思われがちの有名な「楽市楽座」も、信長が創始者ではなく、文献上で初めて楽市楽座を実施したのは、南近江(現:滋賀県南部)の六角定頼という(義元と同じく)優れた戦国大名であり、領内の石寺(近江八幡市安土)で楽市令を敷き、商業の活性化を図っています。
 信長の関所撤廃および楽市楽座は、信長の独創から誕生した政策ではなく、信長が強勢力に成り上がる前に、既に先輩たちが実施していたのですが、信長が先例に倣いつつも、その規模を遥かに超えて全国展開していったことが信長大飛躍の要因の1つとなっているのでしょう。
 織田信長は、己のみの考え・知恵のみを信じて、先例や他人の意見を蔑ろにするという生粋の天才肌というイメージを我々現代人に持たれがちでありますが、決して信長は、全ての先例および他の意見を無視したわけではなく、自分が良い!と思ったものは、素直に学び受け入れる柔軟な考えを持っていたのであります。考えを持っていたのみだけではなく、躊躇なく行動を起こすことを信条にしていたことが、真の信長の偉大さであると思います。

 

 その偉大な信長が先例に倣い、大々的に実施した「関所撤廃」については、このサイト執筆に当たって非常にお世話になっている武田知弘先生の名著『「桶狭間」は経済戦争であった』(青春出版社)で詳しく書かれてありますので、以下に転用させて頂きたいと思います。

 

 『信長は新しく領地を占領するごとに、その地域にある関所を撤廃してきた。これは経済政策として非常に意味のあることだったのである。なぜなら、戦国時代では関所の存在が流通を大きく阻害し、全国の経済活動を停滞させる要因になっていたからだ。』

 

 『関所とは、もともとは朝廷や幕府などが地元の領主などに命じて設置していたもので、今でいう入国管理局や税関の役割を果たすものであった。しかし、戦国時代も後半になると、地元の豪族たちが勝手に関所を作るようになっていて。関所では関銭(関税)を取るのが一般的であり、この関銭目当てで関所を濫造したのである。当時は荘園が各地に入り組んでおり、荘園の地主が勝手に関所を作ったものだから、関所の数が多かった。公家、武家、自社、土豪などが私的に関所を作っており、膨大な数になっていたのである。』

 

 『たとえば、寛正3(1462)年、淀川河口から京都までの間には380ヵ所の関所があり、また、同時期に伊勢の桑名から日永(ひなが)までに60以上の関所があった(「蔭涼軒日録」)。そのため、街道沿いには関所がびっしりとでき、商人や旅人たちは、街道を通るたびに莫大な通行税を払わなければならなかった。』

 

 (以上、「人とモノの流れを変えて世界を縮める」より)

 

 武田先生がお書きになれている上記のように、各荘園領主は勝手に関所を設け、通行人から莫大な通行税を有無を言わせず徴収し自らの財源としていましたが、その中でも全国トップクラスの規模を誇っていたのが、京都の東北に位置する宗教勢力・比叡山延暦寺であり、延暦寺は各地に多くの寺領(荘園)を持ち、その領内の街道上に関所を設置し、通行税を徴収。延暦寺にとって「関所からの通行税」は、「金融業(土倉)」「寺領からの年貢」の2つと並んで三大財源であり、これらを元手に延暦寺は多くの僧兵を雇い入れて、強大な軍事力を背景に朝廷や各戦国大名たちの政権に常に容喙しています。この延暦寺の荒稼ぎと横槍という賢しらな?行為に激怒したのが信長であり、最終的に信長から焼き討ちにされてしまうのであります。

関所撤廃に踏み切った毅然な信長、そして、関所撤廃によって最期を迎えた信長

 更に武田先生は「関所」について以下の如く記述されています。

 

 『地域の豪族たちにとって、関所は重要な収入源となっていた。それは地域の武装勢力を肥やすことになり、戦国の世の治安の悪さにもつながったのである。もちろん、それは経済活動を大きく阻害した。』

 

 『関所というのは、戦国大名たちにはほとんどメリットはない。関銭は、その地域の豪族、有力者などが勝手に課しているものであり、戦国大名には入ってこないのである。(中略)当時、開設されていた関所のほとんどは、大名たちの管轄ではなかったのだ。そのため戦国大名たちは、躍起になって関所を廃止しようと試みた。しかし、地域の豪族、有力者などを力ずくで抑えるということはなかなか難しく、関所の廃止は不完全なものだった。』

 

 『そこを信長は、関所に関しては有無をいわさず廃止してしまったのである。こういう「毅然とした姿勢」が信長の特徴でもある。』

 

 (以上、「同タイトル内」より)

 

 武田先生がお書きになっておられるように、信長は大々的に無駄に多い関所を大々的に廃止し、既得権(大事な収入源)を奪われた有力国人衆や寺社勢力の反攻に屈せず「毅然とした姿勢」を貫徹します。信長が何故、周囲の反攻にもめげずに関所を毅然に撤廃できたのか?それには主に2つの理由が考えられますので箇条書きで示したいと思います。

 

 @関銭が徴収される関所が多く無くなったことによって、人々や物資が以前より遥かに経済的負担が少なく、街道を往来可能となり、諸国が活気付くことになったので、「信長が民衆からの強い支持」を獲得することができたから。

 

信長の一大伝記というべき『信長公記 第1巻』の永禄11(1568)年10月22日の出来事として、信長の力添えによって室町幕府15代将軍となった足利義昭が将軍御座所となっていた細川邸にて、名人・観世大夫を招いて能会を催したことが書かれてありますが、この能会のしばらく後、信長が占領した分国内に数多くある関所(諸関役)を廃止したこと、それに民衆が大いに喜んだことも述べられており、その箇所を筆者のいい加減な現代訳文にさせて頂くと以下の通りになります。

 

 『(信長は)天下と往来する旅人ことを思い、御分国内に数多存在した諸関役を廃止したことにより、都や田舎(鄙)の貴賤の民衆は一同に忝(かたじけない)と拝み満足した。』(信長公記第1巻 より)

 

 上記のように、民衆が自分たちの負担を軽減してくれた信長に対して強い信頼感を抱いている以上は、信長に関所を廃されて収入を減らされた有力衆(国人や宗教勢力)も、民衆の信長支持という強い気持ちを看過できず、易々と信長に対して反抗できない気持ちがあったと思います。
 信長自身も、間違いなく「天下や民衆のことを思い、彼らの経済的負担を減らし、世間を活気付かせるために関所を廃止している。俺は良い事をしているのだ。これまで、経済的に立場の弱い民衆から通行税などを巻き上げて、私腹を肥やしてばかりか、経済発展を妨げている国人衆や寺社、お前たちが悪い。」という信念を持っており、それも信長が「毅然」と関所撤廃を断行した理由の1つとなっていたのでしょう。

 

 A反抗してくる有力者を抑圧できるほどの強力な軍事力(武力)を有していた。

 

 信長は尾張・美濃という豊饒な穀倉地帯である上、領内には莫大な利益を産み出す湾港や川湊があり経済的に恵まれていた地域を本貫地としていたので、その豊かな経済力で多くの信長直属の常備軍や鉄砲などを持っているので、いくら有力者でも信長が元来有している潤沢な経済力で養われていた強大な軍事力には易々と喧嘩を吹っ掛けることは不可能でありました。
 他の戦国大名は国人衆を母体とした軍団を編成している以上、大名たちは、内心関所を撤廃したいと思いつつも、国人が有している関所設置(既得権)を尊重しなければならない弱い立場でありました。もし、強硬に大名が国人の既得権を剥奪したら、国人衆は造反する可能性が高く、この事が結果的に自身の軍事力を低下させてしまうことに繋がってしまいます。しかし、その反面、信長は国人などに依存しなくても、自身の経済力(銭の力)で雇った直属の常備軍(馬廻衆や足軽)を織田軍団の主軸としているので、もし関所が廃止されて反攻してきた国人衆がいたとしても、信長は彼らに会釈容赦なく自身の常備軍で叩き潰す、武力を有していたのです。

 

 以上の2つの理由「民衆からの支持」「反抗勢力を抑圧できる武力」を信長は有していたからこそ、大々的かつ毅然と関所撤廃を行うことができたと考えられます。しかし、この信長が断行してきた関所撤廃政策が、最終的に信長自身の首を絞める結果となり、天下統一目前で死を迎えてしまいます。
 当時の関所は、武田先生が書かれたように入国管理局の役目も担っており、領内外の境である防衛拠点でもありました。信長はこれを大々的に撤廃してしまったために、1582年6月、重臣の明智光秀が大軍を以って、信長に反旗を翻し、領国の丹波国(現:京都府中部および兵庫県北東部)から信長が滞在していた京都・本能寺まで進軍、光秀軍は関所といった防衛ラインに阻まれることなく、一挙に洛中にある本能寺まで攻め込まれ、結果的に信長は光秀に易々と寝首を掻かれることになります。
 歴史作家の井沢元彦先生は、以前刊行されていた歴史雑誌のコラム欄で、「もし京都〜丹波に関所があれば、信長は易々と光秀に殺されなかったであろう。信長が経済発展のために行った関所の撤廃が信長の命を奪う結果となってしまった。この信長の失敗を学んだのが徳川家康であり、天下人になった家康は江戸防衛のために箱根などに関所を設置したが、通行人からは通行税を取らないようにした」という意味合いのことを書かれていたのを読んだ当初の筆者は、「成程!」と感銘を受けたのを覚えています。信長も自身の政策によって寿命を縮める一因になってしまったことを思うと、古今東西に数多存在する政策には、一長一短が必ず存在するという単純なことを改めて思い知らされます。

 

 今回の記事では信長が実施した関所撤廃政策のみについての記事になってしまいましたが、次回は信長が実施した「インフラ整備」、それによって現在でも存在する信長の所産について紹介させて頂きたいと思います。