織田信長にとって城とは何だったのか?

『信長はすべてが独創的であった』という一文が記してある書籍は、司馬遼太郎先生の最晩年のエッセイ『この国のかたち1(信長と独裁)』であります。確かに信長は戦国期当時にあって政治経済・軍事・人事といった様々な面々で彼ならではの独創的な政策や行動を採っていますが、それは今記事の主題である『城』に対しての使い道も信長は独創的でした。

 

 筆者の他記事である「織田信長の引っ越し政策」でも紹介させて頂いたのですが、信長ほど居城を複数回にも移転させた戦国大名は存在しません。那古野城から始まり、清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城→(大坂城=この移転計画は信長死去により頓挫)といったように、信長は生涯の中で5回も居城を移転させています。居城を移転させた理由としては、その時々の情勢に応じて移転させた理由も勿論ありますが、別の大きな理由として挙げられるのが、権力者である自分(信長)が居城を構えることにより、その城周辺に配下武将や商工業者を集住させ「城下町」を造り経済を活性化させることにより、土地の価値を高めてゆくことにも信長は着目していたという点であります。経済流通に明敏な家柄に育った信長らしい目論見でありますね。

 

 前後してしまいましたが、本来『城』という施設は、大名の本拠地(または重要拠点)であると共に、兵士駐屯地・防衛施設という主に「軍事的役目」を担っていました。後の江戸期になると軍事的な役目は薄れ、藩主(大名)の居城・藩の政庁・迎賓館・シンボルといった現在でいう「シティーホール」のような存在に変化してゆくのですが、この江戸期の城が持つ役目を最初に加えたのが戦国期〜安土桃山期の信長であります。
 信長が主に生きたのは戦国期ですので、信長も城を先述の「軍事的役目」として利用してたのは勿論のことなのですが、信長はそれに加え、『魅せる』『権力の象徴』として城を改良していったのであります。即ちうず高く石垣を積み上げ、その上に金箔瓦などが葺かれた豪華絢爛の高層天守閣を建て、人々がその彩りと雄大に惹きつけられると同時に、信長の権力の強大さを敵味方を含める周辺に否応なく誇示できるということ信長は狙ったのであります。 小牧山城では日本初の石垣造りや幅広く長い大手道の城を築城し、その次の岐阜城では、山麓には広大な庭園を持つ壮大な居館を造営し、そこで朝廷や甲斐武田氏からの使者を豪華な接待で持てなす迎賓館としても機能しました。そして、信長最後の居城となる安土城では、小牧山や岐阜での築城の経験が更にホームアップされ、地上約30m(地下1階 地上7階立て)にも及ぶ長大な天守閣を建て、その外壁は金・青・赤・青・白などの色が各層ごとに塗り分けられ、屋根には鯱瓦(金箔瓦)を載せ、信長公記には『上から下まで金が施されている』と伝わるほどの絢爛さを放っていました。
 信長は、この安土城で戦国期の当時では前代未聞の一大事を敢行しています。それは『安土城を有料で一般公開をした』ということであります。つまり信長は『城をビジネス』として利用したのであります。

元祖・テーマパーク安土城の受付係・織田信長

 1576年1月に安土城の築城工事が開始され、3年の年月を費やして1579年5月には城のシンボル兼信長の居館である「天守閣」が完成しています。それから3年後の1582年正月に信長は安土城を「庶民」に向けて有料で一般公開しています。家臣ではなく「庶民」に対してであります。軍事施設であり、軍事上の機密事項がたくさん含まれる「城」を広々と庶民に公開した戦国大名は信長のみであります。安土城は『本邦初のテーマパーク』の一面もあったと言っても過言ではないでしょう。
 先述のように安土城を有料で一般公開しましたが、それに先立ち信長は側近である堀秀政・長谷川秀一を通じて、「今度登城する際には、大名小名に限らず、お礼金を『100文』ずつ持参して来るようにと領民たちにも通知しました。100文を現在の金額で換算すると『約1200円』になります。これも現代の地方にあるテーマパークとほぼ同じ入場料になりますかね。
何故信長が入場料をとって安土城を一般公開したか?ということですが、考えられることが主に3つあります。1つ目は、『自分の雄大な安土城を天下万民に見せつけることによって、自身の絶大な権威を知らしめる』ためだと思われます。事実1582年当時の信長勢力は東海・畿内・北陸・中国一部という広大な領域を持ち、各方面には柴田勝家(北陸)・羽柴秀吉(中国)・滝川一益(甲信・関東)といった有能な武将を司令官として配置され各地方の攻略体制が整っている状況であり、文字通り「天下の覇者」たる勢力でした。
 2つ目に考えられることは、信長自身が『自分が治める庶民に対して好意的であった』ということです。信長は敵方(一向宗徒など)に対しては残忍苛烈な処置を多々行っていますが、自分の領内に住まう庶民に対しては、減税や諸役免除などの優遇措置をとったりしています。また有名な逸話として、信長まだ尾張の戦国大名であった1557年頃、津島で信長自ら天女に扮し、女踊りを庶民たちに披露し、その信長の女踊りに感激した庶民たちがお返しに踊りを信長に披露した後、信長は踊った庶民たちに「喉が渇いたであろう、茶でも飲まれよ」気さくに声をかけて自らの手で茶を勧めたり、扇子で彼らを仰いでやったりしました。他にも、信長が岐阜から京都へ上洛する際に、乞食を見付け、それを哀れと思った信長は乞食に木綿20反を渡した後、その近隣の住人たちを集め「この木綿の半分を売って、あの乞食に家を建てやってくれ。また隣家の者たちは、彼に毎年少しずつ米や麦を与えるように。そしてくれたら信長は嬉しく思う。」という逸話も有名です。
 上記の女踊りと乞食の逸話は信長の伝記「信長公記」が出典となっていますが、信長が庶民に対して寛容で優しかったことを物語っています。よってそのような信長であるから庶民たちに自分の安土城を公開しても不思議ではないように思えます。
 3つ目は、『信長が祭り(イベント)およびパフォーマンス好き』であったということが考えられます。先の自ら女踊りを庶民に見せるという例があるように、信長が数ある戦国大名の中で、祭りやイベント、パフォーマンスが大好きな人物でした(意地悪く言えば、腰が軽い)。室町幕府15代将軍・足利義昭の二条御所を建てる際などは、身軽な恰好で自ら工事現場を指揮したり、石垣に使う巨石を曳く作業の際は、自ら巨石の上に載って扇子を振りつつ、石を曳く音頭をとったり、と信長は大騒ぎしています。因みに一向一揆との合戦の際にも、総大将である信長が前線に出撃し、自ら鉄砲隊の指揮を執ったという豪胆な逸話も残っています。
 上記のように信長のイベント・パフォーマンス好きは、安土城一般公開でも顕れています。それは信長自らが安土城御殿の玄関に立って、庶民たちが持参してきた礼金(入場料)100文を受け取り、その100文を後ろの箱へ放り入れいたそうです。何と当時では天下の覇者となっていた信長がテーマパーク・安土城の受付係をやっていたのであります。これもパフォーマンス好きの信長ならではの気さくな行動でしょう。この100文を受け取って、後ろの箱へ放り入れたという逸話もやはり『信長公記』に記されているものでありますが、庶民たちに礼金100文を持って来させたのは、金銭徴集目的ではなく、信長が受付係をやって100文を受け取り、後ろの箱へ放り投げるというパフォーマンスを行うための「小道具」として皆に100文持って来させたものと思われます。

夜景も売り物とした信長?

 信長の安土城を使った革新的なイベントは「一般公開」のみに留まりません。実は1581年7月15日の夜に、城下町の灯を消させ、安土城を色とりどりの提灯や松明の火灯りで飾って『城をライトアップ』させて、城下町の庶民を愉しませています。信長は元祖・イルミネーションshowを安土城で行っているのですが、この一大イベントも「信長公記」や宣教師・ルイス・フロイスの著書「日本史」などに明記されていますが、それらを筆者の方で、集約し簡単に紹介させて頂くと、多くの灯りにともされた安土城自体も幻想的な華麗さを解き放っていたそうですが、城の直下にある湖面に反射して映る城もまた綺麗であったそうです。因みに信長自身も当夜は城下町の南蛮寺(教会)に赴き、ライトアップの夜景を楽しんだそうです。
 また上記の真逆イベントも別の夜にあったようで、庶民たちを今度は灯りの消えた安土城の天守閣に上げて、城下町に家屋には灯りを付けさせておき、『夜景』を愉しませるということも信長は行っていたそうです。あるTV番組で、この信長の夜景イベントを紹介していた際に、出演者のお1人であった東進ハイスクールのカリスマ講師・林修先生は、『(信長が)日本で初めて夜景がビジネスになるのを発見した人物かもしれない』と評されていました。

 

 信長は周囲に対してとにかく厳格で苛烈なイメージが強烈にある人物(勿論その面をありました)ですが、こういった人々を奇想天外なイベントで愉しませるという茶目っ気というか、面白さも持っていた人物であったことがわかりました。またそういう魅力(人々を愉しませる)も大いに持っていたからこそ、民衆の支持を得て信長は天下人の目前まで邁進するができたと筆者は思っています。兎角イベント・派手好きの人物と言えば、信長の次代にあたる豊臣秀吉が有名ですが、その秀吉は信長のイベント好きを真似て、自分なりにアレンジしたのかもしれまん。それが正解であれば、正しく今記事の冒頭に紹介させて頂いた司馬遼太郎先生が書かれた『信長はすべてが独創的であった』であります。