トップダウン型戦国大名と「平野」という地理関係

 前回の記事では、「有力国人衆の集合体」によって成り立っている「ボトムアップ(中世)型戦国大名」の紹介をさせて頂き、その典型的存在として、長尾(上杉)氏・武田氏・毛利氏の地方の有名大名を好例として挙げ、彼らが強豪であったのに、何故天下の覇権を確立できなかったのか?という事を記述させて頂きました。
 今記事では、ボトムアップ型戦国大名と対照的な『トップダウン(近世)型戦国大名』について、少し紹介をさせて頂きたいと思います。『トップダウン』の戦国大名とは、所謂、『集権的な組織』であり、大名の威厳が強く、大名が発令する『命令は絶対的』になります。つまり大名を頂点に存在し、その直下に家老(重役)が居て、その下に奉行などの中間管理職が存在し、最下部には身分の低い武士、という明確かつ強固な『タテ(ピラミッド)型組織』という構成であります。ボトムアップの戦国大名は、タテ型ではなく、「ヨコ(円)型組織」に近い構成であります。事実、安芸国毛利氏が国人集合体の戦国大名となった際に、書かれた連判起請文の署名は、皆同等を意味させる「円型(通称:傘連判状)」となっています。毛利氏のように、大名を擁する国人衆(家臣団)も強い権威を持っているので、大名と国人は「同等に近い立場」に立ち、大名も家臣たちに遠慮がある形になっています。
 戦国大名の持つ権威が集権的であり、タテ(ピラミッド)型組織が構成されている『トップダウン型』の戦国大名の代表格が、(皆様既にお気付きかもしれませんが)、天下の覇者となった『織田信長』・『豊臣秀吉』・『徳川家康』の3英傑になります。特に信長が、タテ型(トップダウン)組織を創り上げた先駆者であり、秀吉・家康の2英傑は、信長という稀代の英雄の驥尾(きび)に付し、信長が構築したシステムを改良および全国展開したような感があります。

 

 信長・秀吉・家康の共通点は、中部地方に位置する『平野部』の出身者の戦国大名という事であります。信長・秀吉は『濃尾平野』から生まれ、家康はお隣の『三河平野』から出ています。皆様、ご存知のように平野はまっ平の地形であり、高い山など何の遮断物も無い。それはどういう意味か?それは、平野で辺り一面拓け、交通の便も良いから、『大名(トップ)の威厳や命令が、周囲に行き届き易い』という事であります。大名の居城から家臣がいる屋敷まで、馬を走らせてゆけば、ごく数時間で到着します。現代のように通信技術が無い当時には、交通の便の良否はとても大切な事でした。
 対して、中部から外れた地方、武田信玄が拠った甲信、毛利元就の中国地方、共に平野部が少なく、丘陵・山地が絶え間なく存在しています。大名と家臣の間に、山や丘の遮断物があり、往来だけでも大変で、馬で行き来するにも数日かかる場合が多いので、その分、「大名の威厳や命令も周囲に対しては届きにくい」という難点がありました。また敵対勢力なども山林を防壁として籠りやすい欠点もあります。信玄は命令系統の迅速化を少しでも向上させるために、「狼煙台」や真っ直ぐな軍事道「棒道」などを開削しましたが、根本的な解決にはなりませんでした。この根本的に問題となっている地理的環境(山間地)が、信玄や元就が地方有力大名に留まざるおえない限界の1つとなっていました。信長が広々とした平野部を拠点とし、天下の覇者になったという点で、『地理的環境』が大きな違いがありました

「城下町」を有するトップダウン型戦国大名

 平野部は、四方に道が拓け、自然に人々の往来も盛んになり、経済が活性化するという利点もあります。つまり『城下町』が形成されるには最適な地帯であります。信長が、父祖より受け継ぐことができた国内有数の豊饒な濃尾平野を有する尾張国、次いで信長自身が攻略した美濃国(現:岐阜県南部)というのは、城下町が発展するには最適な地域でした。
 城下町が成される事によって商工業者が集住し、経済が発展するのが道理なのですが、それのみではなく、近隣の武士や足軽兵を金銭で雇用し、城下町に住まわせ、彼らは常に軍事訓練で鍛えており、いざ!という場合は直ぐに軍事行動も開始できる臨戦態勢となっています。城下町には、『常備兵、つまり現代で言う職業軍人』を駐屯させている『ベースキャンプ地』の側面もありました。これが信長の有名な政策の1つである「兵農分離」、そして秀吉の「刀狩り」などで更に洗練され、後年の江戸期の「藩」の完成に繋がってゆくのですが、「人と金が集まる豊かな城下町」を保持しているというのもトップダウン(近世)型戦国大名の必須条件でした。
 対して、戦えば天下無敵と畏怖された上杉・武田などのボトムアップ(中世)型戦国大名というのは、臣下の有力国人が各々の小集落で定住し、普段は軍事訓練ではなく「農業」を生業とした「半農半士」として存在し、有事の場合のみ大名の下に「農民兵」として参集し、戦場へ赴くので、軍隊の機動力という点では城下町に集う常備兵よりは、どうしても劣っていました。上杉・武田も自軍の主力となる有力国人以外の農民兵以外の直属の武士(江戸期でいう直参旗本)や足軽といった常備兵も持っていましたが、飽くまでも補助的な存在であり、軍の主力を担える存在ではありませんでした。何故、上杉・武田には信長のように、大規模な常備兵を雇用できなかったのか?理由は簡単であります、それを保持できる「人」と「金」の余裕が無かった、つまり豊かな城下町を持っていなかったという点であります。特に四方を急峻な山々に囲まれ、人の往来少なく、生産や経済の後進地帯であった甲斐国(現:山梨県)を本拠とした武田氏には多くの常備兵を保持してゆくというのが根本的に不可能であったと思われます。
 城下町に定住する武士や足軽というのは、軍事を生業とする職種であり、生産者ではなく「消費者」ですので、彼らやその家族たちが城下町に定住している事によって、食料などの日用物品や合戦に必要な物資が売買されるので、商工業者は活気付き、より経済が活発になり、それによって、職を求める他国の人々が城下町に集まって来て、人口が増えるという相乗効果が出てくるという事になります。「金」と「人」が周囲から集まって来るというのが、平野部に存在した城下町というものでしょう。
 信長は自身の居城とした「那古野、清洲、小牧、岐阜、安土(全部が平野)」で大規模な城下町を建造することによって、「金」と「人」を周囲から集め、自身の権限を強め、堅固なトップダウン型戦国大名として成長していったのです。

織田信長が集めた直参家臣(常備兵)

 信長が清洲や岐阜といった交通の要衝に城下町を抱え、そこに信長が意のままに動員できる直参の武士や常備兵を住まわせ、「兵農分離」政策の先駆けを大々的に行ったのは有名な話ですが、信長が集めた直参の家臣を集め始めたのは、信長が未だ若年の頃で、父・信秀から織田家の当主の座を受け継ぐ前からだと言われています。信長が直に集めたのが、織田氏の支配下にある国人や地侍の子弟で「次男や三男」、つまり家督を継承できない「部屋住み」身分の出身者を積極的に、自身の『馬廻衆(小姓・側近・親衛隊)』として登用してゆき、父・信秀が従える家臣団とは別の、信長直参家臣団(トップダウン組織)を徐々に形成してゆきました。そして、父の死後、父祖の代から仕える譜代家臣たち、林・佐久間・柴田といった尾張の有力国人や土豪よりも、先述の信長直参家臣団を織田氏の中枢に据えるようになってゆきます。
 米の五郎左衛門と呼ばれた「丹羽長秀」、信長の乳兄弟である「池田恒興」、槍の又左と呼ばれ、加賀百万石の祖となる「前田利家」、天下人・豊臣秀吉にも卓越した戦上手を称賛された「佐々成政」といった連中は、後に織田氏が成長するに伴って重鎮となってゆく存在ですが、最初は尾張国内の国人・地侍の部屋住み階級出身者であり、信長に見出された側近衆でした。
 この若き日の信長が直に登用した直参家臣団の出身者の中で、後に、優れた武士を選抜し、信長エリート親衛隊として編成されたのが、『黒母衣衆』『赤母衣衆』と呼ばれる側近集団であります。黒母衣衆には佐々成政が属し、赤母衣衆の部隊長は前田利家でした。また、信長は出自定かではない、浪人も積極的に召し抱えた事でも有名であります。この階級の出身者として、筆頭的な存在はやはり「木下藤吉郎、後の豊臣秀吉」であります。他にも文武両道の名将として有名な「明智光秀」、甲賀出身者で、鉄砲の名手だと伝わる「滝川一益」が存在します。
 これら上記の丹羽・池田・前田・佐々などの国人・地侍の部屋住み出身者、秀吉・光秀・一益といった浪人階級者は、皆すべて信長が持つ豊富な経済力で雇用された「直参家臣」であり、信長を頂点とし強い結束力を持った『トップダウン型戦国大名』を成す家臣団として組み込まれていきました。そして、その家臣団を常に足下の城下町に集住させ、普段は傘下の足軽兵を訓練させ、有事の際には信長の号令があり次第、即時に軍事行動を起こせる俊敏な機動力を保持させている臨戦態勢をとっていました。その上、農民兵を主体とする国人連合軍とは違い「農業」という季節に左右される職種に拘束される事はないので、長期遠征にも耐えれるようになっています。

 

 織田信長という人物は、同時代の武田信玄や上杉謙信、島津義弘ほどの合戦の際には、天才的な威力を発揮する戦術家タイプではありませんでした。寧ろ、有名な桶狭間や長篠(設楽原)を除けば、局地戦では結構負け戦やきわどい合戦をしたりしています。それにも関わらず、何故信長が信玄や謙信を通り越して、天下の覇者に成り得たのか?その要因は色々ありますが、その中の1つを特に挙げるとすれば、『城下町などから得られる潤沢な経済力によって、軍事専門の直参家臣や足軽兵を多く抱え、それらを結束力のある迅速な機動力を持つ軍団(トップダウン(近世)型組織)として従えていたからであります。』それに加え、「織田軍団=鉄砲兵団』とイメージされる程、当時の近代兵器・鉄砲、それに必要な弾薬も潤沢な経済力によって、多く取り揃えていた事も、信長が天下の覇者になった点も見逃せません。信長を頂点とした『近世型の堅固なトップダウン型軍団』、それに近代兵器の『鉄砲』を持った、これが大事であり、これが証明されたのが、1560年、同時の東海地方のボトムアップ型有力戦国大名であった今川義元の中世型大軍団を、優れた機動力を持つ少数精鋭の軍勢で奇襲戦法で打ち破り、天下にその勇名を轟かせ、1575年には三河国長篠設楽原(現:愛知県新城市長篠)で、最強軍団と言われた武田軍を、信長率いる織田軍が、徳川家康軍と共同で、大量の鉄砲を駆使して撃破し、信長を天下の覇者に大きく前進させました。
 実は、上記の「近世型軍団と鉄砲の関係」の事は、筆者が私淑する歴史学者・磯田道史先生の著書『歴史の読み解き方(朝日新書)』に、『濃尾平野で生まれたプロト江戸時代型の集団(筆者注:織田軍団)と鉄砲という新兵器が結びついた。これが歴史のポイントでした。』と書かれてあり、筆者もこの文章に感銘を受け、筆者も書かせて頂きました。
 更に、『同書』で磯田先生は、『近世武士を結びつけた藩システムは、濃尾平野の織田信長が発明し、豊臣秀吉が改良し、徳川家康が全国展開したものです。(中略)江戸的な武士のあり方は、濃尾平野で生まれた。』と書き述べられています。
 この磯田先生の説に則て、筆者なりに纏めさせて頂くと、信長が発明した近世型武士団は、秀吉の大規模な刀狩りなどで身分制度の改良が加えられ、最終的には家康が開いた江戸幕府の根本を成す「幕藩体制」によって完成されたという事になると思います。藩の前身が、『トップダウン(近世型)戦国大名』という存在でした。
 因みに、先述の若年期の信長によって登用された直参家臣たちは、加賀前田氏を筆頭に、池田・丹羽などは江戸全期を通じて藩として存続しています。

秀吉のトップダウン型組織

 信長に仕える足軽の身分から城持ち大名まで登り詰め、遂には信長の後釜として天下人になった豊臣秀吉の場合は、同僚であった佐々や前田とは違い国人や地侍層の出身者ではなく、「平民(農民)」階級の人物なので、代々仕える譜代家臣という存在を当初から持っていなかったので、自らの手で「否応なしに直参家臣」を作り、トップダウン型組織を形成するしかありませんでした。事実、秀吉が信長から北近江の浅井氏の旧領の内、12万石と長浜城(最初は小谷城)を与えられ、城持ち大名になると、秀吉や彼の正妻・寧(「おね」とも)の親戚筋から「浅野幸長」「木下一族」、秀吉の故郷・尾張国からは「加藤清正(虎之助)」「福島正則(市松)」など後の豊臣政権の『武断派(尾張閥』と呼ばれる勇猛な者たち小姓として登用し、秀吉の統治国の近江からは、「石田三成(佐吉)」「大谷吉継(桂松)」「片桐且元(助作)」など言うわゆる官僚タイプ、後の『文治派(近江閥)』も積極的に登用し、秀吉をトップとする羽柴(豊臣)トップダウン組織を形成してゆきます。所謂、「秀吉子飼いの武将」、後の「豊臣恩顧の大名」たちであります。
 信長に仕えていた羽柴秀吉時代は、この秀吉自家製トップダウン組織は一番効果を発揮しており、秀吉は織田政権下で出世頭として台頭したばかりでなく、信長が本能寺の変で明智光秀によって横死した折、当時中国地方の有力大名・毛利氏と備中高松城(現:岡山県岡山市)で対峙していましたが、旧主・信長の仇討のために備中から京都の山崎までの約200kmの道程を約10日間で行軍し、光秀を討った「中国大返し」「山崎の戦い」を成功でき、秀吉が大きく天下人の道へ大きく前進しました。また1583年、織田政権の後継者の覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」でも、秀吉軍団は優れた機動力、「七本槍」と称せられる武断派の猛将たちを活かし、宿敵・柴田勝家を倒しています。以上のように、秀吉のトップダウン組織は、「強行軍(大返し)」を決行できるほど、日頃から訓練を積んでいる上、組織内の命令や輸送系統が明確になっていたのであります。
 天下人・豊臣秀吉時代になると、「豊臣」という巨大な秀吉のトップダウン型組織は、豊臣のまとめ役で官房長官的存在でった秀吉の実弟(異父弟説もあり)・豊臣秀長の早逝(1592年)や秀吉が晩年敢行した2回の「朝鮮出兵(唐入り)」が原因となって、組織内で内部分裂(武断派と文治派の対立)を生むことなり、構造に亀裂が入り始めます。そして、1598年8月、トップの秀吉が死去するに及んで、豊臣トップダウン組織は完全に分裂し、2年後の1600年・天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、石田三成たち文治派(奉行衆)が組織する「西軍」と福島正則・黒田長政たち武断派を従える徳川家康(豊臣五大老筆頭)の「東軍」の闘争に発展することになり、結果、家康が勝利し、次代の天下人となりました。
 信長・秀吉といった強烈なほどのカリスマ性と統率力を持った人物がトップダウン組織(家臣団)を構成すると、組織自体が途轍もない威力を発揮し、結束力も強固なものとなりますが、一旦、そのトップが亡くなってしまうと、数年も経たぬ内に組織は瓦解してしまうという脆さも持っています。事実、信長・秀吉が手塩にかけて創った両トップダウン組織は、彼らが亡くなると容易く崩壊し、天下人の座から転落しています。

家康のトップダウン型組織

 戦国最後の勝利者・徳川家康のトップダウン組織はどうであったか?彼は三河国(現:愛知県東部)の有力国人(土豪)であった松平氏を出自とした戦国大名であり、三河国内では他の有力国人たちも割拠している状況でした。そういう意味では家康は本来、国人連合体である「ボトムアップ型戦国大名」の出身者と言えます。実際、家康が桶狭間の戦い以後、従属先の今川氏から独立を果たし、苦闘の末、自国の三河を統一した折(1566年頃)、家康は譜代家老で有力国人の1人である酒井忠次を旗頭とする「東三河衆」と、同じく譜代家老かつ国人である石川家成(のちに石川教正)を旗頭とする「西三河衆」を編成し、酒井・石川という有力国人2名に三河国に土着している土豪などの管轄を委任しています。しかし同時期、その一方で、家康は「直参家臣団(のちの旗本)」の強化も行い、トップダウン型組織の編成にも着手しています。
 『旗本先手組(旗本一手役)』という組織が、家康の直参家臣団というべき存在であり、合戦の折りには先陣を切る「切り込み隊長」でした。これらに配属された人物たちは、主に家康がまだ幼少期で今川氏の人質時代から従った小姓たちや元服(当時の成人式)直後の若武者などでした。後に「三河武士の鑑」と江戸期に賞賛される「鳥居元忠」、講談などで有名な大久保彦左衛門の兄に当たる「大久保忠世」「大須賀康高」などが旗本先手組の将でしたが、その筆頭的な存在で有名なのが「本多忠勝」「榊原康政」、そして今年(2017年)の大河ドラマに所縁が深い「井伊直政」、後世「徳川四天王」と謳われた三傑であります(残りの1人は酒井忠次)。
 この『旗本先手組』こそ、常に家康の膝元の城下町に集住する「常備軍」であり、家康が意のままに動かせる徳川直参家臣団というべき存在でもあり、家康は彼らを戦場で積極的に活躍させることにより、彼ら自身に力を付けさせ、そのトップに君臨する家康の「トップダウン組織」の強化に努めました。家康は、この常備軍を組織維持できる経済力を何処から手に入れていたのか?家康自身も領地の浜松などで楽市楽座を設け、経済の活性化に努めていますが、それ以上に家康の同盟者であり、強力な経済基盤を持っていた織田信長から経済的支援を受けていたいたことが大きいと言われています。また、これは筆者個人の意見なのですが、家康の家臣団たちは、昔から今川氏の属国になることを余儀なくされ、上から強い締め付けが行われ、その結果、「貧乏に強くハングリー精神に富んだ集団」であったので、安い賃金で耐えれたかもしれません。(実際、家康は自分の家臣たちに対して大幅な加増とか滅多に行っていませんが)

 

 家康自身は三河の有力国人の出身であり、西三河衆・東三河衆の国人集合体である「ボトムアップ型組織」も生かしつつも、一方では榊原・本多・井伊といった小姓出身者の若手武将たちを直参家臣団として常備軍に組み込み、「トップダウン型組織」も編成していったという形になります。当初は東西の三河衆(ボトムアップ)の方が徳川家中内では強かったですが、本多など旗本先手組(トップダウン)が戦場で活躍する事によって徐々に家中内での力を強めてゆき、彼らが諸国の城持ち武将になることで先手組の方が力を持つようになりました。
 徳川氏のボトムアップ型組織が完全に崩れ、家康を頂点とする強力なトップダウン型組織に変貌する決定的な出来事が1590年に起こります。それは時の天下人・豊臣秀吉によって行われた家康の『関東異動(移封)』であります。1590年、秀吉は長く関東地方一円で勢力を誇っていた戦国大名・後北条氏を滅亡させ、家康に後北条氏の旧領である関八州250万石を与え、家康に武蔵国江戸(現:東京都)に本拠を置くことを勧めました。それまでの家康は、本拠地の三河を含める甲信・東海に計5ヶ国の約150万石を持つ有力な戦国大名でしたが、上記の関東に広大な領地を与えられる条件で、三河をはじめとする150万石の領土は秀吉に没収されました。
 現在でこそ、世界を代表する国際都市・東京(旧江戸)を有する関東地方は拓け日本の中心地ですが、家康が異動させられた頃の関東(江戸)は殆ど湿地帯に覆われた不毛地帯であり、100万石以上の加増とは言え、代々父祖の領国である三河や東海地方から家康は箱根山以東の後進地帯へ追い出された状態になってしまったのです。「左遷」ならぬ右遷でしょうか。家康とその家臣団は関東という不毛地帯の開拓から着手せざるを得ない状況に追い込まれました。しかし反面、この左遷に近い家康関東異動は、家康が徳川氏を三河国人集合体の「ボトムアップ組織」を一挙に、家康をトップとする「トップダウン組織」へ変貌させる大きな転換点になりました。何故ならば、三河国に代々土着していた家康に隷属している国人たちは、天下人・秀吉の命令により主家の家康と共に縁も所縁もない後進地帯の関東へ異動させられ、彼らが有していた三河国内で所有していた中小の土地(田畑)の支配権も完全にリセットされてしまった状態になったからです。経済的基盤であった土地を取り上げられた国人たちは無力となり、主家である家康に忠実に従うしかありません。
 一方の家康も抜け目なく、家康自身の領地(直轄領)は100万石以上として、三河以来の国人層家臣たちに対しては、1万石〜3万石の領地しか分配しませんでした。10万石以上の領地を与えられたのは、「井伊直政(12万石)」「本多忠勝(10万石)」「榊原康政(10万石)」の3名のみであり、しかも家康直参家臣団である旗本先手組に属していた連中ばかりであります。余談ですが、実は当初、家康はこの3傑に対しても1万石〜5万石の小さい石高を分配しようと考えていたようですが、天下人・秀吉は家康の吝嗇ぶりに呆れ、天下にその武名が知られる3傑の石高は10万石以上にしてやれ、と秀吉から横槍が入ったために、仕方なく3人は2桁の石高を有する武将にしたと言われています。
 家康は、信長や秀吉のように巨大な城下町を造り経済を発達させたり、全国の金銀山といった鉱山を開発して莫大な富を得て、それを元手に直参家臣団を雇用し、強力なトップダウン組織を構成するという手段は採らずに、関東異動という厄介な事件を利用して、家康配下の国人たちの土地の支配力が弱体化したのを機に、自身の石高数を強めたことにより、強い権限を得て、「徳川トップダウン組織」を造っていたということになります。悪く言ってしまえば、家康のトップダウン組織構築方法は、信長たちに比べかなり「セコイ」やり方ではありますが。

関東平野開拓という土木工事で家臣団と組織力を鍛えた家康

 先述のように、家康が秀吉の命令によって事実上の左遷をされた江戸を含める当時の関東平野の殆どは、利根川などの大河川の氾濫により、湿地帯が広がる不毛地帯でありました。そこで家康は江戸の町造り、河川(利根川)や湿地帯の埋立などの土木工事を余儀なくされるのですが、この工事を家康配下の武士団や足軽衆に実施させています。つまり秀吉によって天下は統一され国内は(一時的な)平和となり、戦は途絶えましたが、家康はただ配下の家臣団たちを遊ばしておくのではなく、上記の江戸(関東)開拓の土木工事で身体を鍛えさせていたのであります。因みにこの大工事の総監督を行ったのが、徳川3傑の1人・榊原康政であります。
 歴史家・磯田道史先生が司会を務められているNHK歴史番組『英雄たちの選択』という番組内で、過去に家康の関東移封(題名:なぜ家康は江戸を選んだのか?)を題材した回がありましたが、その時ゲスト出演されていた都市計画家であり首都大学東京教授の東秀紀先生が『家康は工事を侍である家臣団にやらせていた』というご発言を受けた、司会の磯田先生は以下の通りに言われました。

 

 『戦争と一緒でね、足軽部隊とかは戦争が無い時は、ああいった(筆者注:関東開拓)土木工事に動員するわけですよ。だから土木工事をやるといつも臨戦態勢となっているのと同じなので、非常に軍団が鍛えられるし、(足軽たちは)命令をいうことを聞くものになってゆくんですね。関ヶ原の練習は毎日やっていたんですよ。大坂攻めもね。だから開発地を与えたらお金も使うし、自分に背かなくてもいいだろうと秀吉は思ったかもしれないけど、(家康たち家臣団にとって関東開拓の土木工事は)良い運動場になっちゃったわけですよね。ここで(筆者注:家康のトップダウン組織)の統率力が固まっていたわけですね、そう思いますよ』

 

 上記の磯田先生のお言葉を拝借して筆者なりに纏めさせて頂くと、家康は関東移封というある意味では左遷とも受けられる難事を、関東の土木工事を家臣たちと一丸となって実践することによって、より強固な兵力・より優れた命令系統を確立し、家康頂点の『トップダウン組織』を地道に造り上げた、ということであります。そして、この組織(軍団)を家康は率いて、関東移封10年後の1600年・関ヶ原の戦いの道へ進み、ゴールである天下人の座へ辿り着いたのであります。そして、先人の信長・秀吉のトップダウン組織崩壊の失敗例から学びつつ、徳川(江戸)幕府を頂点とする幕藩体制という『トップダウン型政体』に上手く転換していったのであります。家康とその組織は三河平野で生まれましたが、徳川という強大なトップダウン型組織は日本最大級の『関東平野』で育まれた形になりました。

 

 以上のように、信長・秀吉・家康の3英傑を例として『トップダウン(近世)型戦国大名』について紹介させて頂きましたが、信長・秀吉という家康より遥かにカリスマ性リーダーシップが強い人物たちが『トップダウン型戦国大名』の魁的存在でありましたが、その両人が死んだ後、あれだけ威力を発揮した「織田」「豊臣」というトップダウン型組織は脆くも崩壊してしまいました。その一方で先の両者より地味で、常に彼らの後塵を拝していた中庸的な家康が最後にトップダウン型戦国大名の生き残りとなり、遂には天下人となり、後世に徳川250年も続く太平な世を遺す結果になりました。「天才より地道な凡人が最後に勝つ」という、顛末もあるということを歴史は如実に語っているように思えます。特に凡人中の凡人である筆者には特にそう感じました。
 因みに、家康が関東移封で自分の家臣団を使ってやった壮大な河川や平野などの土木工事は結果的に、後世発展に繋がってゆき、現在でも絶え間なく発展し続ける東京の礎になっているのは確実であります。先述の歴史番組『英雄たちの選択』の同回のゲストにご出演されていた竹村公太郎先生は、家康のことを『(結果的に)日本国土形成の最大の功労者』と評しておられます。