国人衆から誕生した典型的な戦国武将・毛利氏

国人領主を出自とする有名な戦国武将シリーズ、遂に安芸国(現:広島県西部)の『毛利氏』について紹介させて頂くことになりました。筆者個人からしてみれば、東から順繰りに戦国国人領主を紹介してきたことを思えば、後に紹介させて頂くであろう四国土佐の長曾我部氏、九州肥前の龍造寺氏らと並んで、国人層出身であり有数の戦国大名まで成長した安芸毛利氏まで来たのを鑑みると、「遂にここ(毛利)まで来たか」と、大袈裟に言ってしまえば、「感慨が沸いてくる」のを感じてしまいます。

 

 戦国史の泰斗でいらっしゃる静岡大学名誉教授・小和田哲男先生はある歴史番組のインタビュー内で、毛利氏のことを『国人領主から戦国大名へと成り上がった最たる好例』と仰っていましたが、全くその通りであり、筆者が前々から紹介させて頂いた近江国(現:滋賀県)の「浅井氏」や「蒲生氏」などといった国人領主から有力戦国大名になったケースがあり、両氏の上をゆくのは先述の四国地方の「長曾我部氏」も土佐国(現:高知県)の一国人領主から最盛期には四国の覇者になっていますが、安芸の毛利氏は「3者」以上の小国人領主出身(吉田3千貫)であり、同格あるいは格上であった安芸備後(共に広島県)の国人衆を巧みに糾合し、徐々に勢力を蓄え、遂には大陸貿易で巨万の富を築き上げ当時西国随一の隆盛を誇った周防長門(現:山口県)の名門戦国大名・大内氏を滅ぼし、次いで大内の長年の宿敵であり、山陰の鉄の利権を把握していた出雲国(現:島根県東部)の尼子氏も屈服させ、中国地方10ヶ国を支配する西日本最大の戦国大名までに成長しています。
 山陰山陽の覇者となった毛利氏は、その後も日本史をターニングポイントに存在しており、天下の覇者・織田信長と戦い、豊臣秀吉政権下では五大老の要職に就き、天下分け目の関ヶ原合戦では、西軍の総大将となり、東軍総大将である徳川家康と雌雄を争い敗れ、防長2ヶ国(長州藩)に転落しながらも、江戸幕末には薩摩藩(島津氏)と討幕運動の双璧を成し、明治維新を成し遂げているほど毛利氏は日本史の中心に存在しています。この点で、毛利氏は同じ国人領主から戦国大名になりつつも最終的には滅亡した浅井や長曾我部よりも遥かに巨大な存在であったことがわかります。

 

 安芸の山間に蟠踞していた中小規模の国人領主であった毛利氏が戦国期を代表する戦国大名としたのは、戦国随一の策略家(謀神)である『毛利元就(1496〜1571)』であることは皆様よくご存知ことでありますが、安芸吉田に拠った毛利氏自体は、元就が誕生する遥か以前の鎌倉期から吉田一帯を本拠とした古い一族でした。

毛利氏の先祖は、鎌倉幕府の名宰相・大江広元

 戦国期・江戸幕末に重要的地位に存在し、日本史を動かした毛利氏ですが、その氏族の起源を辿ってゆけば、鎌倉幕府に仕えた御家人・大江広元が始祖となっています。元来、広元は行政・事務能力に長けていた京都の朝廷に仕える中級貴族の出身でありましたが、源平争乱期に源頼朝が関東武士団のリーダーとして鎌倉の地に日本史上本格的武家政権(鎌倉幕府)を樹立した折、頼朝の招聘を受けて京都から当時、未開の地であった関東(鎌倉)に下向。広元は幕府の政所初代別当、政府の行政長官に就任し、持ち前の優れた行政能力を活かして武家政権機構の建設に多大な功績を挙げました。頼朝が幕府統治を活性化するために諸国に守護・地頭を設置することを朝廷に認可されたことは歴史の授業で習うほど有名ですが、この後々の武家政権の根幹となった守護・地頭の設置を頼朝に献策したのは広元であると言われています。
 広元は頼朝死後も執権・北条氏と結び付き引き続き幕府の創設に尽力、その功績から作家の永井路子先生は『鎌倉幕府は広元がいなくては成立しえなかった。鎌倉幕府は大江幕府でもあった』と言わしめるほどの人物でした。広元の子孫であるとされている戦国期の元就も卓越した政治力と知略で、西国の覇者となっていきますが、元就の素地は鎌倉期の広元から来ていると思ってしまうのはこじ付けでしょうか?

 

 幕府を切り盛りするほどの大物であった広元は、各地に多くの所領を有した上、頼朝死後、関東武士団(御家人)内で凄惨たる内紛でも巧みに生き残り天寿を全うした(このあたりも元就と類似していますが)ので、彼には多くの子孫がおり、広元の四男である「季光」が父の所領の1つであった相模国愛甲郡毛利庄(現:神奈川県厚木市)を継承し、毛利姓を名乗ったが「毛利氏」の始まりとされています。そして、この季光が幕府と朝廷の一大決戦で有名な承久の乱(1221年)で戦功を挙げ、安芸国吉田荘を幕府に与えられており、それまで関東を本拠としていた毛利(大江)氏が西国である安芸に拠点を持つ嚆矢となり、このことが国人領主を出自とする戦国武将・毛利へと繋がってゆくことになります。

 

 西日本各地には、鎌倉幕府の守護・地頭として中国・九州に割拠した関東出身の御家人が多くいます。その代表例が九州の島津氏や大友氏といった毛利氏と同じく戦国期を代表する戦国武将でありますが、安芸国内もその例に漏れないですが、毛利氏以外にも、元来関東御家人であった国人領主として、後に毛利と深い関係で結ばれる吉川・小早川(毛利両川)をはじめ、宍戸・熊谷といった毛利の有力家臣となる諸氏が挙げられます。鎌倉期以前まで、長らく朝廷および平氏一門の勢力下にあった西日本の統治を盤石にするために幕府は直臣である関東御家人を西国に配備。特に安芸国内は甲斐源氏である武田氏を守護とし、その配下として毛利・吉川などの御家人衆を置いたのですが、これが戦国初期になると、守護の安芸武田氏は衰退し、安芸国内に強権的な統治者が存在せず中小の国人領主が濫立する情勢になってゆくのです。

 

 上記のように、戦国初期の安芸国内は中小の国人領主たちが割拠する状況であり、西の周防長門(現:山口県)には大内氏が西国最大の戦国大名として君臨し、北東の出雲国(現:島根県東部)を中心に山陰で尼子氏が勢力を誇り、安芸国内の国人衆たちは常に大内・尼子の覇権争いに巻き込まれる悲哀を味わっていました。毛利氏も例外ではなく、当主であり元就の父である弘元、兄であった興元たちは大内・尼子の2大巨頭の中で、毛利氏を存続させる重責(ストレス)に耐えかねるようになり、酒の飲みすぎ(酒害)によって若死にしている始末であり、父兄たちの死後に毛利氏の当主となった元就も厳しい戦況下を生き残っていきました。
兄・興元の遺児・幸鶴丸が年少で毛利氏当主となり、叔父に当たる元就、相合元網(興元・元就の異母弟)たちが後見人となり、毛利本家を支えてゆくのですが、その幼子当主であった幸鶴丸も生来病弱であったために9歳で病没。当然、幼子であった幸鶴丸に跡継ぎの子がいるはずはなく、血筋上で次男とは言え、正室の子である元就が毛利の新当主となりました。時に元就27歳。しかし、異母弟の元網(一説には元網派であった重臣たち)が、元就の本家相続に不満を抱き、当時毛利の盟主であった尼子氏の支援を得て、元就に対して反旗を翻しましたが、元就は自身の家臣団を率いて、元網およびその一派を粛清および自刃に追い込むことによって、毛利氏の内紛は決着し、元就は名実と共に毛利氏当主として戦国の表舞台に登場することになります。

 

 毛利の当主となった元就もまた亡き父兄と同様に、大内・尼子の2大勢力の紛争の間を生き残るために、最初は尼子、次いで大内と従属先を替え、更に大内と毛利の関係をより盤石にするために自分の嫡男・隆元を人質に出したり、同じ国人衆であり長年毛利と敵対関係となっていた宍戸氏には長女(後の五龍局)を嫁がせて婚姻関係を結ぶ一方、毛利と敵対した高橋氏(亡兄・興元の正室の実家)などは軍勢を差し向けて討滅するなどの硬軟織り交ぜた政略で勢力を拡大してゆきます。元就は27歳で家督を相続してから約30年間は、上記のように安芸の山間に拠る零細国人領主として、生き残ることのにを思って四苦八苦し、徐々に勢力を蓄えていくことのみに全精魂を傾けいた長い雌伏の時期でありました。後に、中国地方全域を制し、信長・秀吉・家康という3英傑に一目も二目も置かれてることになる覇者・毛利氏になるとは、元就自身も夢にも思わなったことでしょう。
 大内派として、徐々に安芸国内で勢力を蓄えていっている毛利元就の存在を不快に思っている大名がありました。それが大内の宿敵で山陰で勢力を誇っている尼子氏でした。当時の尼子氏当主は詮久(のちの晴久)は、1540年、自ら3万の大軍を山陰の諸国から動員、それらを率いて毛利の本拠である吉田郡山城攻略に出陣します。対して守備側の元就が動員できる兵力は最大でも約2千。
 3万対2千、元就絶体絶命の窮地でありますが、元就は郡山城に籠城し、尼子の大軍を迎撃。約6ヶ月の攻防戦の末、大内軍の援軍を得た元就が尼子軍を撃退したことにより合戦は終了します。これが「吉田郡山城の戦い」と呼ばれる元就の生涯の内の3大合戦とされていますが、この「吉田郡山城の戦い」で尼子の当主・詮久が率いる大軍を小勢で撃破したことにより、元就の武名は安芸および隣国の備後国(現:広島県東部)の国人衆たちに轟き、安芸備後の国人衆の代表格となってゆくことになったのであります。その証拠に、元就が国人領主から戦国大名となった際は、安芸備後に割拠している国人衆を傘下に治め、後の大戦となる「厳島の戦い(1555年)」では、両国の国人衆を率いて戦うことになり、大勝利を治めています。
 元就にとって「吉田郡山城の戦い」での勝利は国人領主・毛利氏のターニングポイントとなったのでありますので、この「吉田郡山城の戦い」をまた別記事で紹介させて頂くことをお知らせさせて頂きいたところで、今回の記事を終えたいと思います。