紀伊鈴木氏を含める『雑賀衆』という国人領主の一揆衆(連合体)

 少しずつではありますが、東から西へと順繰りに「国人領主を出自とする有名な戦国武将編」を、ほぼ毎記事更の折に紹介させて頂いており、今回で6回目となりました。皆様のお蔭様を持ちましてシリーズ化?となっている「国人領主編」でありますが、今後も更に西日本へ徐々に移ってゆき、四国・中国・九州各地の国人衆から誕生したあまりにも有名な毛利氏や長宗我部氏といった戦国武将も紹介させて頂きたいと思っております。
 今記事では、漸く紀伊国(現:和歌山県)に拠った国人領主・『紀伊鈴木氏』を紹介とさせて頂きます。紀伊鈴木氏、即ち戦国期最新鋭兵器・鉄砲を駆使して、天下の覇者・織田信長を敵に回して善戦した強豪国人連合(傭兵)軍団・『雑賀衆(さいかしゅう)』のリーダー格であった勢力であります。
 紀伊鈴木氏から出た武将の中で、司馬遼太郎先生の痛快長編歴史小説『尻啖え孫市』(講談社および角川文庫)などの講談や時代劇、近年では人気TVゲームシリーズ「戦国無双」(コーエーテクモゲームス)の登場キャラクターでもある『雑賀孫市(鈴木重秀)』が特に特に有名であり、それ以外にも「鈴木重意」、「鈴木重朝(孫市の息子説)」という武将が不明確ながらも実在したと伝えられています。今回はその紀伊鈴木氏について筆者なりに紹介させて頂きたいと思います。

 

 『紀伊(雑賀)鈴木氏』(紀伊国)

 

 日本神話にも導きの神として登場する「八咫烏」を家紋に使っているのが特徴的である紀伊鈴木氏は、現在の和歌山市の一部(同市平井など)と紀ノ川河口北岸付近を含める紀伊十ヶ郷を本拠としていた国人領主の一勢力であったと言われ、紀ノ川南岸(和歌山市一帯、海南市の一部)に点在する雑賀荘・中郷・社家郷・三上郷など各地域を本拠とする他の国人領主であった「土橋氏」・「岩橋氏」・「島村氏」「栗村氏」・「松江氏」・「宮本氏」と連合した組織を『雑賀衆/雑賀一揆衆または雑賀五ヶ郷』と言われ、この雑賀衆の統率者とされていたのが十ヶ郷の鈴木氏であります。
鈴木氏や土橋氏を含める『国人領主の連合体』であった雑賀衆は、鉄砲とゲリラ戦を駆使する強力傭兵軍団として我々に周知されているのですが、平時は『国人領主=兵農未分離』らしく農業に従事し、紀伊は古くから漁業が盛んな地域であったので漁業も営む人々の集まりでした。雑賀衆が漁業などで海事に通じているという事に加え、本拠としている紀伊国という西国に通じる海路という地理的好条件に恵まれていたので、独自で海運業や海外貿易業にも携わっていたと言われています。
 織田信長や上杉謙信などの有力戦国大名に比べ経済力も軍事力も劣っている農漁業を主体とする国人領主の集まりに過ぎない鈴木氏を含める雑賀衆が、最新鋭かつ高価な兵器・鉄砲を数千挺以上とそれに必要な火薬(硝石)なども取り揃え、かつ駆使することができた最大の理由は、海運や貿易業で豊かな経済力を蓄えていたからであります。また先述のように、雑賀衆はゲリラ戦=奇襲作戦にも精通していましたが、構成員の殆どが農民・漁民という下民層であったので、鎌倉や室町から続く正規の武家に比べて、戦場の常識、つまり「正々堂々と戦う正攻法(白兵戦)」に固執することなく、柔軟な戦法(奇策)を発案して実行できたことが考えられます。もっとも奇策を用いて戦わなければ、武家に比べ兵力が劣る農漁業民たち(雑賀衆)が負けてしまうということもあったと思います。
 因みに、正々堂々と戦うという合戦のセオリーを無視して、卑怯・奇抜なゲリラ戦を得意とした名将は日本史に存在します。戦国期以前では源平期の源義経、南北朝期では楠木正成、戦国期になると信州の真田昌幸、山陽の毛利元就が奇抜な戦いで多くの戦に勝利をおさめた人物として高名ですが、武家の棟梁の一族である源氏を出自としている義経を除けば、正成・昌幸・元就といった武将は皆、馬借(運輸)業、国人領主といった階層出身者であり、武家としては小勢で、ゲリラ戦を得意とした連中たちでした。
 『知恵というものは、強者が持っているものでなく、弱者が持っているものである』という言葉を司馬遼太郎先生が講演会で言っておられますが、戦国のひと昔の正成、戦国期の元就などは弱者だからこそ強者に勝つための戦法を考案して実行できた強みがあったのであります。(雑賀衆はそれに加え、鉄砲を保持していたという強みもありましたが)
 今回紹介させて頂いております鈴木氏たち雑賀衆も正しく上記の強みを持った弱者でありました。その証左として、1577年、当時の天下最大の強者となっていた信長が約6万の大軍を率いて敵対していた雑賀衆を討滅するべく敢行した第一次紀州征伐の折、雑賀衆は雑賀川(和歌川)沿いに砦や柵などを構築、渡河して侵攻してくる信長軍に対してのを絶対防衛ラインとした上に、雑賀川の底には桶・壺・槍先を沈めておいて、渡河する信長の兵馬がそれらの障害物に足元を掬われている隙に、雑賀衆は鉄砲を一斉射撃。多大な犠牲を被った信長は退却しています。川底に桶や壺を沈めて敵の進軍を阻むというのは強者(正規の武士)では思い付かぬ奇抜なゲリラ戦法であり、農漁業民という集まりの国人衆=弱者の知恵者だからこそ思い付いたのでしょう。

 

 紀州の一部のみ領土している国人領主の鈴木氏(雑賀衆)が戦国表舞台に登場し、強大な信長と対峙して、信長をして苦戦させるほど活躍することが出来たのは、先述のように「鉄砲および弾丸」を多く保有していたという軍事力の強さが一番の理由でありました。
 定説では鉄砲が日本に初めて伝来がしたのは1543年、大隅国(現:鹿児島県東部)の種子島であるのは有名でありますが、その鉄砲が伝来した折に、「雑賀衆と同業者=傭兵および海運/貿易の主宰者」であり、緊密な関係があったとされている紀州根来寺の頭目・津田監物(算長、かずなが のちに津田流砲術の開祖)が種子島に逗留しており、監物が鉄砲1丁を紀伊へ持ち帰り、根来刀鍛冶職人であった芝辻清右衛門に鉄砲製造を依頼。清右衛門は鉄砲製造に成功し、このことが紀伊国が堺や長浜と並んで国内有数の鉄砲に所縁が深くなる所縁となります。実際のところ根来衆が大量の鉄砲をどのように入手していた経路は現在でも判明していませんが、戦国期に紀伊国内に大量の鉄砲が保有していたことは事実であり、雑賀衆も恐らく緊密な関係であった根来寺を通じて鉄砲や弾薬入手ルートを抑え、大量に鉄砲などを入手していたと思われます。
 紀伊国が監物のお蔭によって、本州にあるどの諸国よりもいち早く鉄砲という最新武器に接触し、堺と並んで鉄砲製造のメッカ的地域になったは間違いないのですが、製造で大量に鉄砲を入手するというよりも、雑賀衆と根来寺は海運および貿易の主導者であったので、西国(九州ひいては南蛮諸国)から鉄砲弾薬を簡単に入手できる交易ルートを持っていたと考えるのが妥当であると筆者は思っております。特に弾薬の「薬=火薬」が重要であり、火薬の主原料となる硝石は当時日本では殆ど生産できず、専ら火薬の発明地である中国太陸からの輸入に頼っている状態でした。海運などを生業の一種としたいた雑賀衆や根来寺にとっては硝石、火薬などは東国の戦国大名たちに比べると容易に入手できたと思われます。
 雑賀衆や根来寺が拠る紀伊国が海運などを生業としたある種の海洋国家のような立場になっていたことを筆者なりに考えてみますと、紀伊半島は東国の海(伊勢湾・遠州灘など)への玄関口のような存在となっている上、半島の直ぐ南には「黒潮(大蛇行流路)」という有名な潮流があり、その上に乗って当時、最先端の技術や物資が入ってくる九州などの西国から入って来易い地理的環境にありました。これが紀伊国が戦国期に海洋国家になっていた要因であったと思います。津田監物も恐らくこの黒潮に乗って、様々な西国の物資、そして鉄砲を紀伊へ持ち帰ったのではないでしょうか。兎に角にも国人衆=傭兵の集団に過ぎない雑賀衆が信長軍団に対抗できるほどの軍事力=銃火器力を保持できたのは単なる偶然ではなく、しっかりと根拠があるのであります。

当代随一の戦争屋・鈴木孫市の活躍と鈴木氏のその後

 雑賀衆の頭目的立場である鈴木氏が天下に武名を轟かせることになったのは、鈴木孫市(鈴木重秀、および雑賀孫市)とされる人物が登場することから始まったとされています。孫市をはじめとする鉄砲集団・雑賀衆が本格的に戦場の表舞台に登場するのは、信長と摂津石山本願寺(一向一揆宗徒)が初めて直接対決した「淀川堤の戦い・野田城・福島城の戦い(1570年)」であります。これが10年という長きに渡る宗教戦争「石山合戦」のはじまりとなるのですが、古くより「紀州門徒および雑賀門徒」と称せられるほど紀伊国は一大一向門徒衆国であり、カトリック教宣教師であり戦国期の優れた観察者であるルイス・フロイスも当時の紀伊国のことを『大いなる宗教共和国』と評しており、紀伊国内で強大な宗教勢力として「高野山(高野町)」・「根来寺(岩出市)」・「粉河寺(紀の川市)」・「熊野大社(田辺市)」、そして「雑賀衆(和歌山市)」を挙げています。その人種、強力な経済力と軍事力を有する宗教勢力に入る鈴木氏や土橋氏など石山本願寺を盟主と仰ぎ、国人と国人が一揆衆(連合)を結成して雑賀衆となっていたので、信長と盟主・石山本願寺が対決した折は、本願寺/一向一揆衆側に属して戦いました。
 本願寺側から見れば、鈴木孫市や雑賀衆は一地方国の宗徒の一派にしかすぎず、他の戦国大名で言えば「外様家臣」のような存在でしたが、全国の一向一揆衆の総本山である石山本願寺がある摂津国(現:大阪府北部)の直ぐ南方にある紀伊国は、大阪湾を通じれば石山本願寺の絶好なバックアップ基地である上、孫市も鉄砲で装備された雑賀衆を率いて淀川堤の戦いをはじめ、信長軍との戦いで大活躍し、天下の覇者である信長軍を度々撃退するなどして、孫市は事実上一向一揆軍の総大将であったとされる本願寺の武官・下間頼廉と並んで、一向一揆軍の中心的存在になってゆきます。
 一方、孫市など雑賀衆が主力となっている一向一揆衆に苦戦を強いられた信長は得意の外交戦略を展開。石山合戦が始まる前後には既に根来寺を織田の味方に付けることに成功し、1576年になると信長はいよいよ雑賀衆の切り崩し工作も実行してゆきます。その結果、雑賀衆が形成されている五ヶ郷の内、社家郷・中郷・南郷の3組も織田方に鞍替えすることになります。
 国人領主の集団である雑賀衆は現代風に言えば、「小会社の組合」のようなものであり、その中で鈴木孫市が雑賀衆のリーダーとなっていましたが、決して孫市足下で強固な結束を持っている組織ではなく、他の構成員である国人領主である土橋氏なども大きな権限を持っており、飽くまでも「雑賀衆=仲間同士の集まり」という域を出ませんでした。この雑賀衆=国人領主連合(一揆衆)の統御性の脆さを信長は熟知し、社家郷など3組を織田方に寝返りさせたのであります。因みに信長は、雑賀衆以外の敵対勢力にも巧みな外交戦略を展開しており、瀬戸内海という当時国内最大の航路を抑えていた「日本最大の海賊」と称されていた因島・来島・能島の3家から成る「村上水軍」も信長の工作を受けて来島村上氏が織田方に鞍替えしています。織田信長という戦国一の鬼才は、戦う前に敵の強弱を徹底的に調べ上げ、その弱みを掴み巧みに内部から切り崩しを十分に行った後、漸く軍勢を動かす、即ち「確実に自分が勝つまで下準備をする」という理念を常に持って自勢力を拡大していったことが信長の強みの1つでありました。
 雑賀衆を内部分裂させた信長は勝利を確信。紀州征伐の大軍を催し、未だ敵対している鈴木孫市の十ヶ郷と雑賀荘の土橋守重(若太夫)を攻略目標に定め、雑賀衆の完全討滅を目論見ます。結果的には先述のように、雑賀川の攻防戦の際、孫市率いる雑賀衆(といっても十ヶ郷と雑賀荘の2組)が川底に壺などを沈めて織田軍の進軍を妨害した上、得意の鉄砲戦術で織田の大軍を一時撃退するという活躍を見せることになります。信長の工作により弱体化していた雑賀衆であるにも関わらず、天下の軍勢である織田の大軍を退けた孫市と雑賀衆という当時を代表する戦争屋の凄さが遺憾なく発揮されたものとなりました。正に「孫市は自分の尻を信長に啖せた」ものとなりました。
 雑賀川の合戦後、雑賀衆と織田軍の戦前は膠着状態になり、最終的にはやはり戦力・物量に敵わない孫市や守重たち雑賀衆が信長に降伏する形で終結することになったのですが、当初信長の紀州征伐も第一目的である「鈴木孫市を含める雑賀衆の完全討滅」は不成功で終わったのであります。紀州の一部の領土しか握っていない鈴木氏を含める弱小国人領主組合であった雑賀衆が信長の猛攻をはね返し、滅ぶことなく生き残っていったことは特筆すべきことではないでしょうか。
 これほど戦争方面で大活躍した鈴木孫市であるにも関わらず、この人物の経歴おろか実名も判明していないというのがまた不思議であります。名前も鈴木孫市というのをはじめ、有名な雑賀孫市、あるいは鈴木重秀など様々なものがあり、正確な生没年や没地などもわからないという非常に謎めいた武将であります。こういった点(記録=歴史に残らないこと)を見てみても孫市という人物は、いかにも当時、無数に存在し、没落していった典型的な国人領主であったことを感じさせるものがあります。
 同時代の国人領主層の出身者でありながら、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人の驥尾に付して戦国乱世の勝ち組となり、幕藩体制下で大名として生き残った信州の真田、東海の井伊・蜂須賀、畿内の柳生など記録(藩翰譜などの書物)に残る人々たちとは違う道を孫市は歩んでいったことは確かであります。
 定説となっているのは、信長との戦い(紀州討伐)後の孫市は、信長亡き後の天下人・豊臣秀吉の鉄砲組頭として仕えたと言われ、その孫市の子供される鈴木重朝の引き続き豊臣氏に仕え、秀吉没後に発生した関ヶ原合戦の前哨戦であった京都伏見城の戦いで西軍(毛利輝元と石田三成)方に属し、伏見城の城将であった家康(東軍)の重臣・鳥居元忠を討ち取るほどの活躍したと言われています。しかし、周知の通り本戦である関ヶ原合戦では西軍が敗北。家康の重臣であり寵臣でもあった元忠を討った重朝は奥州の実力者・伊達政宗の下へ亡命します。
 当初、元忠を討たれた家康は下手人である重朝への怒りは凄まじく、政宗に重朝引き渡しを強く要求しますが、政宗の助命嘆願などもあり、結果的には重朝を赦した上、自身の11男であり水戸徳川家の当主となっていた頼房の付家老に補します。重朝の子である重次は頼房の11男である重義を養子として迎え入れ、その後、雑賀鈴木氏は徳川御三家の1つである水戸徳川氏の家臣として明治維新まで家名を存続してゆくことになります。因みに鈴木氏に養子に入った重義の母方の高祖父は鈴木孫市の盟主であった一向一揆衆の総大将・本願寺顕如であり、図らずも鈴木氏はかつての盟主の血筋が入ることになったのであります。