『ボトムアップ(下意上達)』とは?『トップダウン(上意下達)』とは?

 筆者のあらぬ虚栄心によって、変に格好を付けて『ボトムアップ型』『トップダウン型』といったヨコ文字を使った記事表題にしてしまった感も否めませんが、もしかしたらこのヨコ文字の方がしっくり来る読者様も中にはいらっしゃるのではないか?という期待を込めて、『上記の2字』を敢えて使わさせて頂きました。

 

 皆様ご存知のように、『ボトムアップ(和訳:下意上達)』『トップダウン(上意下達)』という単語は、経済投資や会社経営(人間関係)でよく使われる用語であり、両者間はいつも「対義関係の意味」として位置付けされています。会社経営の例にとって両者の意味を、三省堂さんの大辞林 第三版に則って、簡潔に述べさせて頂くと以下のようになります。

 

@ボトムアップ『下位から上位への発議で意思決定がなされる管理方式』という意味。つまり社長や重役といった上層部が、部下(現場の人間)からの意見を吸い上げて、経営方針に生かす方式になりますかね。

 

対してもう1つの方は・・・

 

Aトップダウン『上層部による意思決定が上位から下位へ伝達され、社員をそれに従わせる管理方式』という意味。上層部間で経営方針を決定し、部下たちに伝達し、経営を行ってゆく方式になりますかね。

 

 どちらの経営方法が良否なのか?という事を論じるのは、今記事の要点ではないので、それについての争論は別の方に譲らさせて頂きまして、筆者が今記事内で紹介させて頂きたいと思っているのは、戦国時代を生きた大名たちにも『ボトムアップ型』と『トップダウン型』がタイプが存在したという、この一点でございます。その詳細をこれから筆者なりに記述させて頂きますが、『両者』のタイプに属する戦国大名の概要を先に述べさせて頂くと・・・

 

*ボトムアップ型戦国大名各国に拠点を置く「有力な国人(ボトム)たち」が集合(家中形成)し、成り立った戦国大名たち『中世型戦国大名』

 

*トップダウン型戦国大名「戦国大名(トップ)」が強大な権力を持ち、直臣(部下)および国人(ボトム)たちを完全傘下に治めて、成り立った戦国大名たち『近世型戦国大名』

 

上記のようにさせて頂きます。先ずは、>@のボトムアップ型戦国大名の紹介です。

ボトムアップ型戦国大名の背骨となる『国人』とは?

 『国人』という言葉には、「国衙領(国府)の国民ないし住民(日本後記)」という広義的な意味も含んでいますが、武士団が台頭してきた中世以降では、『在国の有力名主(豪族)』や『在地に居住した惣領(大将)を中心に独自の勢力を持つ武士』を指す言葉として、史料などで使われるようになっており、国人という呼称以外にも、国衆・在国衆とも言われる事があります。要は近代風に言ってしまえば、『国人=広大な田畑や多くの自作農や小作人を支配下に置く大地主』ようなものであります。
 鎌倉時代、幕府(源頼朝)によって日本各地の荘園を管理するために任命された『地頭職』を拝命した武士たちが、現地に土着して勢力を持ったのが『国人』の始まりと言われており、室町時代(南北朝争乱や応仁の乱)以降には勢力を更に付けるようになり、国人の支配者にあたる室町幕府や守護大名の統治にも大きな影響を与えるようになりました。場合によっては、もし先の支配者たちが、国人の意に沿わないような強引な手口で事を行うと、国人たちは互いに結束し、支配者に対して、態度を硬化する事もありました(国人一揆)。会社で例えるならば、国人(組合)による会社(幕府・守護大名)に対してのストライキのようなものであります。
 上記のように、室町期以降に、国人の強力な支配者たるべき幕府や守護大名が国人たちの存在を無視できないようになってきたか、と言うと、室町期以降、地方の農業生産力や経済流通が飛躍的に発展し、国人たちが直接統治している農村および運送業者(馬借・問丸)といった名もない草莽(そうもう)層以前よりも力を持つようになったのに伴って、国人勢力が伸張したのに比べ、上層部たる幕府・守護大名は、お家騒動や互いの諍いによって求心力を失い、国人に対しての影響力が下がったからであります。いつの世でも、食(農業)と金(経済)の力を持った人物が力を持つようになるのは当然のようです

ボトムアップ型戦国大名=国人集合(中世)型戦国大名

 戦国時代になると、中世(鎌倉〜室町)期以降、力を付けた国人層が、自分たちの上層部であたる戦国大名に対しても、変わらず大きな影響力を持っていた事は間違いありません。時には、自分たちをしっかりと統治保護してくれない戦国大名に対しては、国人連合を結成、つまり国人一揆を行い、対抗しました。中には弱体化した戦国大名を支配者の座から蹴落としたりしました。美濃国(現:岐阜県)の名門守護大名・土岐氏は、重臣であった斎藤氏をはじめとする国人連合衆によって、国主の座から追放されるという憂き目に合っています。
 そうしたら支配者である戦国大名も国人たちへ対しての配慮の事細かにしなければいけません。「国人たちが支配している経済的基盤(農村・金銭収入源)を保証してやり」「少しでも恩恵を与えてやる(加増)」「強引に過度な軍役(軍事負担)を課さない」「大地主たる国人が忙しい農繁期(田植えや稲刈り)には軍事行動(合戦)を起こさない」。などといった色々な配慮を支配者である戦国大名は、配下である国人たちに配慮していました。正に国人を尊重していかなければ、戦国大名たちは、統治をやってゆけませんでした。これが『ボトムアップ型戦国大名、中世型戦国大名』となります。

ボトムアップ型戦国大名の典型である上杉・武田・毛利の強豪たち

 ボトムアップ型戦国大名というのは、日本各地にたくさん存在しました、と言うより、ほとんどの地方に割拠する戦国大名が、国人層に乗っかった勢力であり、戦国期最強大名と言われた『越後国(現:新潟県)の『長尾景虎(のちの上杉謙信)』、甲斐国(現:山梨県)の『武田信玄』もその例外ではなく、典型的なボトムアップ型戦国大名でした。一代で中国地方の覇者に成り上がった安芸国(現:広島県)の毛利元就に至っては、ボトム層、つまり国人領主から身を興し、戦国大名に成り上がった人物であり、そういう意味ではどの戦国武将よりも正真正銘のボトムアップ型戦国大名でした。
 長尾(上杉)、武田、毛利といった戦国大名は、伝統があり、合戦の際にも戦えば強い軍団(国人結成軍)を従える有力な戦国大名である事は間違いないのですが、終生、自分達の支配下であるボトム(国人)層に気苦労が絶えない英雄たちでもあった事もまた間違いありません。
 上杉謙信は若年の頃、強力な配下の国人(揚北衆や大熊氏・本庄氏など)たちを制御できず、自分の意向を無視して、国人たちは土地争い(内紛)に夢中になり続け、それに嫌気を指した謙信は自ら大名の座を放棄し、高野山に逐電する騒動を引き起こし、武田信玄も、戦には強いが、それ以上に個性が強すぎる支配国人領主たち(郡内の小山田氏など)を統御するため、外面では、国人たちに褒賞で与える土地を得るために領土拡張政策に躍起になり、内面では分国法である「甲州法度」を制定し、国人たちを法の下に統治する事を心掛けるばかりでなく、「もし自分(信玄)も法を破れば、自分も罰を受ける」と宣言するほど配下国人たちを尊重していました。
 毛利元就は、本来がボトム層の出身であるだけに、上記の2英雄より壮絶な経験を経て、時代を代表する戦国大名の1人になっています。幼少の頃に父母と死に別れ、その後、毛利家配下の有力国人であった井上一族に所領を横領され、城から追い出されるという悲惨な目に遭い、毛利家を継いだ後には、当時中国地方の有力戦国大名であった大内氏や尼子氏の二大勢力間で辛酸を舐め続け、同じ国人層と政略を繰り返し、徐々に勢力を蓄え、晩年に至って漸く、戦国大名となり、厳島合戦の勝利など経て、漸く名実ともに戦国を代表する群雄になりました。
 上杉、武田、毛利のボトムアップ型戦国大名は、地方に割拠し、いざ合戦を行えば、無敵な強さを発揮をするのですが、弱点もありました。ボトムアップ型戦国大名が従える軍団、有力な国人たちは、平時は自分たちの所領である山間の村々に住まい、郎党や農民を従え、本業である農業に勤しみ、田畑を耕し、作物を育てて暮らしており、常に大名の本拠地である本城(御館)に側近くに常住しているのではありませんでした。そして、有事(合戦)の際に「いざ!」と言って、自分が大名から義務付けられている兵力(配下の郎党たち)・馬や槍などの軍備を整え(一連の動員令を『軍役』といいます)、馬に跨り、本城へ駆けつけてます。その様にして各地の村々に住まう国人たちが配下の兵力を従え、本城へ参集し、そこで正に各地から『寄せ集めてきた』、普段は農業に忙殺されている国人連合軍を軍団として編成し、漸く合戦場へ出陣します。正に鎌倉期や室町期の武士団をそのまま体現した中世的な出陣手順であり、出陣するまで時間があまりにもかかりすぎるのであります。これが第一の弱点でしょう
 中世的軍勢は、所詮寄せ集めの集団ですので、結束を固めるために、出陣式など執り行いましたが、上杉謙信の場合は、自分が崇拝する毘沙門天を祀る毘沙門堂に籠り、戦勝を祈願し、更には「自分は毘沙門天の化身である」と軍団に宣伝して回り、謙信指揮の下、結束を固めようとし、武田信玄の場合は、武田家に代々伝わる2つの家宝・「御旗(みはた、元祖武家の棟梁と言われる源義家(八幡太郎)の軍旗)」と「楯無の鎧(武田家の祖・源義光の大鎧」の御前で、配下と共に戦勝を誓う儀式を行い、武田軍の結束を図りました。
 いざ合戦と決まれば、国人たちが住まう山間の村々に伝令を飛ばして、号令をかけ、各々の国人たちはその号令に答えて、軍勢軍備を整え、下知を発した大名の下に駆けつけ、各地から寄せ集めた国人連合軍の結束を図るため、出陣式を行い、漸く戦地へ向かう、という様々な手続きを踏んで出陣するという、あまりにも時間と労力を要しました。これでは、いくら戦に強い中世的な軍団(その双璧が上杉軍と武田軍)でも、急を要し、迅速に動く必要がある合戦の際には大きな足枷になったのも事実でした。そして、もう1つ、中世的軍団には、『決定的な弱点』がありました。それは、軍団の中核を成している国人連合軍の本業が、『農業』である以上、農繁期(つまり田植え(春夏)や稲刈り時期(9月)には、大規模な軍事行動が採れないばかりか、農作業に拘束されている以上は、村を離れての『長期出張(合戦)』は不可能である。という事であります。上杉・武田などが地方で強大な力を持ちつつも、天下に覇を唱えることが遂に出来なかった大きな原因でした。毛利元就は、さすがにこの事(中世的軍団の弱点)を痛感していたようで、「毛利は中国地方だけの統治に専念し、天下は決して望むな」と次代を担ってゆく息子たち言い遺しています。
 中世的軍団は強いですが、脆い面のありました。それは、先述のように、「国人の寄せ集め連合軍」であり、結束力に欠けていた事であります。合戦の際、一旦でも自軍が不利になれば、国人は容赦なく、自分の本貫である村々に逃げ帰りました。戦国大名と国人の間は、「双務契約・ギブアンドテイクの間柄」であり、支配者たる大名は国人の本領を保証(安堵)してやる事によって、国人は大名の下知(軍役・出陣)に従うというものであり、この関係は、武士が政権を打ち立てた鎌倉時代から不変なものでした。つまりよく言われる「御恩」と「奉公」のセットでございます。
 武田軍は、信玄亡き後に、実質上の後継者である武田(諏訪)勝頼が、近世型戦国大名である織田・徳川連合軍と三河国長篠設楽原で一大決戦をした際(1575年)、武田軍は、統制の採れた近世軍の織田徳川連合軍(有名な鉄砲三段打ち)の前に、不利な戦況に追い込まれると、武田軍の有力国人であり、一門衆でもあった穴山信君(梅雪)、そして、亡き信玄の弟であり、勝頼の叔父にあたる武田信廉(逍遙軒)が戦場から無断撤退し、武田軍大敗の大きな原因となっています。
 毛利軍の場合は、広大な領土と軍事力(120万石)を持っていたので、1600年天下を二分した大決戦、関ケ原の戦いで西軍(大坂方)の総大将に推されながらも、敗北による毛利軍大崩壊に恐怖し、最後まで大胆な軍事行動ができずに、西軍大敗北という結果となり、決戦が終わってしまいした。後に大軍(3万)を決戦に投入しながらも、一度も戦いをしなかった毛利軍を嘲笑の意味を込めて、周囲の人々は「毛利宰相の空弁当」といったそうです。味方である石田三成から「参戦してくれ」と要請があったにもかかわらず、毛利軍側は『今、弁当を使っているから無理だ』と苦し紛れの言い訳をしたと伝わったからであります。毛利軍の場合は、武田軍と違って、寄せ集めである自軍の崩壊(国人離反)が怖くて、日和見してしまった感があります。
 以上のように、中世的軍団には、結束面(大名に対する忠誠心)が脆かった面も指摘できます。

 

 何故、上杉・武田・毛利といった有力な勢力を含める戦国大名たちは、農業を根幹となす国人連合体制、ボトムアップ(中世)型戦国大名から抜け出せなかったか?何故、国人に依存し、彼らを中核に据えた軍団しか形成できなかったか?それは『地理的環境』『経済的条件』に大きな原因がありました。
 先ずは、『地理的環境』ですが、上杉の本拠は「越後国」、武田の本拠は「甲斐国」、毛利の本拠は「安芸国」ですが、現在の県名で言えば「新潟」「山梨」「広島」の順になります。当時の三国は農業(米)生産力は乏しい地域であり、農業後進地帯でありました。また鎌倉期より国人衆が多く住まっている上、特に「甲斐(山梨)」「安芸(広島」の2国は、山間(盆地)が多く、その村々があり、そこを本貫としている国人衆ばかりだったので、彼らの視野がどうしても狭くて利己的(つまり井の中の蛙状態)になり、支配している側の戦国大名の威厳(命令)が良く行き届かなかった点があると思います。越後(新潟)の場合は、平野で広々としていましたが、その分、潟(湖)や耕作不可能な湿地帯や不毛地帯が多く、農業を勤しむ越後国人には開墾地を求めて、(謙信を大いに苦しめた)国人同士互いに争い合い、これまた戦国大名の威厳が届きにくい環境となっていました。
 『経済的条件』ですが、先述のように、越後・甲斐・安芸は当時は農業後進地帯であり、自力で直属の多くの兵力(足軽)を雇いたくても、雇う余力がなかった点があると思います。それ以前に、上杉・武田・毛利といったボトムアップ型戦国大名たちのような生涯を通して、国人を相手にしてきた人物たちの頭の中には、当初から「自力で多くの足軽を雇い入れ、思うまま動かせる近世的軍団をつくる」という考えは持ち合わせていなかったかもしれません。つまり皆、鎌倉期から続く中世の考え(国人連合主体、御恩と奉公)を持った保守的な人物であった。という事であります。

 

 ボトムアップ型戦国大名と対をなす、戦国大名の威厳が良く行き届く地理的環境に恵まれ(平野部を拠点としている)、国人のように季節(農繁期)に憂い惑わされず、迅速かつ自分の手足の如く自在に動かせ、結束力あ強く練度の高い軍団を取り入れるほどの経済的余裕もある戦国大名。それこそが『トップダウン(近世)型戦国大名』となります。「平野部」「経済に余裕がある」「迅速かつ結束力が強い軍団」を持つ強力なトップダウン型戦国大名がボトムアップ型戦国大名を抑えて天下統一に突き進んでゆきます。即ち、『トップダウン型戦国大名』とは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑を意味しますが、その詳細はまた別記事にて紹介させていただきたいと思います。