戦国期における陸路のリスク

以前の記事(戦国時代の流通)では、主に「五畿七道」といった古代に敷設された官道、武部健一先生著の『道路の日本史』(中央新書)を参照させて頂き、戦国期の「陸路」を中心に説明させて頂きましたが、今記事では、現在でも日本を含める全世界の主要流通となっている(戦国期の)『海路/水運』について紹介させて頂きたいと思います。

 

 陸路では古代(7世紀後半)頃から中央(京都・奈良)と地方を繋ぐ東海道・東山道・北陸道といった所謂「七道」が整備されていましたが、その七道という当時の幹線道路も集落や街などから離れた場所に敷設されており、その上、地方と地方を繋ぐ道路はあまり整備されていませんでした。この状況が改善されるのは、政権の中心地が朝廷や公家が住していた西国(畿内)から、武士たちが開拓した関東という当時の僻地(東夷)に遷り始めた鎌倉期からであります。関東武士団は武士の都となった鎌倉と各々の領地を結ぶ「鎌倉街道」を整備し、地方と地方(田舎と田舎)を繋ぐ幹線道路が本格的に歴史の表舞台に登場するようになります。
 戦国期になると、各地方に自分の経済力と軍事力で領土を統治する戦国大名が登場し、各大名(特に武田・上杉・後北条など有力者)は、領国内の各農村から納入される年貢米および兵員動員や軍需品などの物流を円滑化にするために、道路整備や伝馬制度を設立するなどのインフラ事業を展開しています。しかし、殆どの地方に拠る大名たちは、防衛や麾下の農民逃散防止目的のために、経済(商工業)の中心地である城下町以外の道路を大々的に拡張整備することを行わず、足場の悪い道であったと言われています。その上、統治者たち(大名は勿論、国人領主や寺社勢力)は権力にものを言わせ、その足場の悪い道路上には「関所」を設け、通行する人々から通行税も徴収していたのですから、人やモノの流れが活性化する訳がありません。また現在のように、日本全国に近代的国家権力(警察機構)が及んでいない戦国期〜江戸期では、治安面では非常に脆弱であり、山中には野盗・盗賊が跋扈しており、更には、合戦に負けて逃げてゆく武士や兵士を襲撃するという「落武者狩り」という言葉がある通り、土豪や国人、農民までもが平気で他人を襲撃・強盗を行っていた時期であるので、陸路での旅(物流移動)は危険なものがありました。因みに、この陸路の悪状況が徐々に改善されてゆくようになるには、天下の覇者・織田信長の台頭まで待たなくていけません。

 

 上記のように狭隘かつ不用心、金(通行税)も掛かってしまう陸路での物流の活性化を望むことには限界あったので、そこで物流の活性化の役割を担うのは『海路および水運』であります。

海洋国家・日本の隆盛

 皆様ご存知の通り、四方を海に囲まれた上、内陸にも大小の河川や湖を有する地理的環境を有している日本列島では、古来より『水上移動』および『水運』が発達しており、縄文期以前より人々の手によっって「丸木舟(刳舟/くりぶね)」が造られ、それによって広い琵琶湖上を往き来していたと言われ、また飛鳥期(約6世紀後半〜7世紀初頭)頃になると、日本(当時は倭国)が中国大陸(隋王朝)の技術や制度を学ぶために遣隋使が日本列島と大陸(あるいは朝鮮半島)間を往き来した際は、大箱型船(ジャンク船)が建造・利用され、荒海を越えて海外(アジア)へ海路が拓けていました。
 平安末期になると、それまで荘園から得られる収入のみにしがみついていた貴族たちを尻目に、稀代の天才・平清盛は日宋貿易で莫大な利益を得ることを画策し、それまで大型貿易船の航行が不可能であった瀬戸内海航路を拡げて、大型船を航行可能にしたり、摂津国福原(現:兵庫県神戸市)に大和田港を開港する一大事業を行ったことにより、清盛は日本貿易史および海上交通史(水運)に大きな偉業を成したのであります。特に瀬戸内海航路を拡げて「海上交通の大動脈」へと発展させ、西から入って来る大陸の文化・物資を大量かつ円滑に中央(畿内)へ届くようにした功績は、後の室町期および戦国期に多大な影響を与えました。清盛よって大きく拓かれた海外へ通じる瀬戸内海上(西日本)では、厳島・廿日市・塩飽・鞆・室津、そして堺などの海上交通重要拠点(貿易港)が戦国期になって殷賑を極めるようになってゆき、それらの拠点および海路を抑えた国内最大の海賊衆(水軍)・村上水軍が登場。芸予諸島を本拠にして、陸の権力者(朝廷・幕府・戦国大名)と対等に張り合える勢力を持つに至ります。

 

 室町期になると、いよいよ本格的に日本は海外貿易の活況が著しくなってゆきます。3代将軍・足利義満が当時の大陸王朝の明帝国に対して朝貢を行った結果、永楽帝によって「日本国王」の称号とその印章を贈られたことによって、有名な『勘合貿易(日明貿易)』(1401〜1549)が国家間の公式貿易および堺や博多の有力商人が主導となる民間貿易(私貿易)が行われるようになりました。日本からは刀剣・銅・扇子・屏風などが大陸へ向け輸出され、大陸からは書物・生糸・明銭(永楽銭)が輸入され、これらの大陸の品々は室町文化の開花に大きな影響を与えました。余談ですが、日本の主要輸出品目の1つであった刀剣の生産地であったのは、近江今浜(現:滋賀県長浜市)、そして備前福岡(現:岡山県備前市)といった当時から国内有数の刀鍛冶村落でしたが、後者の備前福岡と所縁が深かったとされているのが、有名な黒田官兵衛(孝高・如水)の黒田氏であり、関ヶ原合戦後、黒田氏が筑前国(現:福岡県西部)52万を徳川家康から与えられた折、(諸説ありますが)、博多港の隣地・福崎を備前福岡から「福岡」の名をとり、黒田藩は筑前福岡藩とも呼ばれるようになりました。現在でも呼ばれている福岡県という地名は、日本の輸出品目であった刀剣が製造されていた備前福岡から由来しているのであります。

 

 戦国期の嚆矢となる応仁の乱後の日明貿易は、管領・細川氏や周防長門(現:山口県)の有力戦国大名・大内氏、堺や博多の有力商人によって引き続き行われており、特に大陸に近い、本州西端の周防長門を本拠にしているという地理的好条件に恵まれていた大内氏は、日明貿易を行って莫大な利益を手に入れ、西国最大の戦国大名として君臨しています。
 中国大陸との海外貿易で西国の戦国大名や博多や堺を拠点とする商人たちは富を入手している海上交通の全盛期を迎えていたのでありますが、戦国期(15世紀後半〜16世紀初頭)では世界全体が『大航海時代』の全盛期であり、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスといった西洋諸国は、アジアに向けて海路を開拓し、各西洋国はインドを中心としたアジア諸国に商館を建てて、アジアでの新たな商業圏獲得に躍起となていました。
 上記の時代の大波は戦国期の日本にも到来し、ポルトガル・スペインといった「南蛮人」は日本で産出される資源(銀などの鉱物)や商圏を求めて、インド・ルソン島(現:フィリピン諸島)の南方(つまり中国から見れば『南蛮』)の海路から来日。多くの戦国大名や豪商たちは、西洋人が持ってくる物資や文化(宗教)に魅了され、彼らと貿易を行うようになります。即ち『南蛮貿易』であり、その利権を握った豪商が拠る堺・博多・平戸は南蛮貿易の重要拠点として更なる発展をしてゆくことになります。またその南蛮貿易の始発点というべき「鉄砲伝来」(1543年)で、最新兵器・鉄砲が日本にもたらされた事により合戦の有り様が一変し、大量の鉄砲(火力)を有する勢力が戦国の主導者になる(つまり信長)ということを決定付け、戦国史の変革に大きな一役となったのであります。

 

 以上のように、海上交通によって古代〜室町前期は中国大陸と交わりを深め、中国の文物を学び律令国家としての日本を確立し、戦国期になると世界全体が大航海時代を迎え、日本では中国のみに留まらず、ルソンなどの東アジア諸国、そして西洋諸国との貿易を行い、東洋・西洋の文物・思想の受け皿となる「海洋国」となっていたのであります。先述のように、世界が大航海で貿易が主流であったように戦国期の日本もその例外に漏れず、当時の日本も海外貿易の全盛期であったのであります。
 戦国期の日本は西国の海上交通のみが隆盛を誇っていたのか?と言えば、決してそうではなく、日本海航路および河川や湖が多い地形であった日本では運河業なども盛んでありました。今記事では西国の海上交通の活況のみの紹介となってしまいましたが、次回は日本海航路や河川の水運についても探ってゆきたいと思います。