南近江の名家・蒲生氏の前史

国人領主を出自とする戦国武将編でございますが、前回は北近江(湖北、滋賀県北部)の浅井氏について(筆者が思った以上に)長々と紹介させて頂きましたが、今回は同じ滋賀県内でも南近江蒲生郡日野に拠っていた『蒲生氏』について紹介させて頂きたいと思います。
 実は、これから蒲生氏について記述させて頂くことについて筆者は楽しみにしております。筆者が好きな戦国武将の1人である当代きっての文武両道の将であった『蒲生氏郷(はじめは賦秀)』を輩出した氏族であり、のちの江戸期の経済界の重鎮となる三井氏(つまり現在の三越グループ)などの「近江商人」の飛躍土台をつくったほど、蒲生氏は優れた先見性と見識を持っていたほど魅力を感じる国人領主であるからであります。
 白状してしまうと、前回の北近江の浅井氏については、現在の天皇家にも血筋を延々と遺していることなどを含めて長々と記述させて頂いておきながら、(浅井氏贔屓の皆様には誠に申し訳ないですが)、筆者個人としては浅井氏にはあまり魅力を感じておらず、寧ろ浅井氏、特に最期の当主・長政には、性格の品行方正さを感じつつも、必要以上に自尊心が強く、それによって短慮をおこし自家を滅ぼしてしまったという、忠臣蔵で有名な「浅野内匠頭長矩」に似た雰囲気を感じて、筆者個人としては浅井氏の政治感覚および先見性の無さに好きになれないものがあるのを否めません。(筆者が浅野内匠頭が好きではない、という個人感情もありますが)
 反面、同国の出身ながら氏郷の蒲生氏は、祖父・定秀、父・賢秀、そして氏郷の蒲生三代は、南近江の守護大名である六角氏の重臣として最後まで仕え、主家が新興勢力である織田信長に滅ぼされた後は、織田氏に忠実に仕え、蒲生氏の家名を存続させるばかりでなく、氏郷の代(豊臣秀吉政権期)になると蒲生氏は「会津若松92万石」を有する東北の有力大名として急成長し、会津若松・伊勢松坂(松阪)などの現在にも続く地方都市の原型をつくったほどの政治的手腕があり、先述のように江戸期の近江商人を庇護する経済感覚を持っていた蒲生氏に筆者は興味を注がれます。
 その南近江に興った戦国武将・蒲生氏(氏郷中心になってしまう可能性がありますが)について少しでも詳しく探ってゆきたいと思います。

 

*『蒲生氏 近江国(現:滋賀県蒲生郡日野町)』
 近江蒲生氏は、源氏や平氏と並んで後々の多くの武家が派生した「藤原秀郷(平将門討伐で活躍)」を祖としており、代々近江蒲生郡日野の国人領主として勢力を蓄え、その秀郷から数えて6代目の藤原惟俊という人物から蒲生姓を名乗っています。『姓氏家系大辞典 第1巻』(太田亮著、姓氏家系大辞典刊行会)の蒲生姓の紹介には、『秀郷流藤原姓、近江蒲生郡の古大族ならんも、後世秀郷流藤原姓を称す』と書かれてあるので、蒲生氏が近江蒲生で古くから拠っていた有力国人領主であったことは間違いありません。
 室町期になると、蒲生氏は足利将軍家と密接な関係にあった近江源氏の本流で近江国守護大名であった六角氏の「客将」として傘下に入ったと言われていますが、完全に六角氏家中に組み込まれた訳ではなく、半独立的勢力としているほど南近江での蒲生氏の勢力は強力であり、中でも蒲生氏14代当主・貞秀(応仁の乱〜戦国前期)は、殆どの生涯を戦場で過ごしたほどの勇猛な武将で、主家である六角氏や足利将軍家の傘下で数多くの合戦で活躍したと同時に、当時では有名な歌人であり、室町後期の連歌撰集「新選菟玖波集(しんせんつくばしゅう)」にも貞秀作の歌が5首選ばれているほどの教養豊かな人物であり、この教養を武器にして、京都の公家である飛鳥井家や三条西家などとも交流を持つ名外交官でもありました。主家の六角氏の他にも、足利将軍家や朝廷の名門公家とも太いパイプを持っていたということを見てみても、蒲生氏はただの国人領主ではないことがわかります。
 この記事を執筆させて頂くにあたって蒲生氏のことを調べることで、漸く上記の貞秀のことを初めて知るに至りましたが、この貞秀の教養の深さを含める武将としての優れた器量は、貞秀の玄孫である名将・氏郷(第19代当主)を彷彿させるものがあります。因みに、応仁の乱直後の戦国の黎明期というべき激動時代には、日本の各地には旧態依然の形式に囚われず、当時では斬新かつ合理的な考えを以って勢力を伸張してきた才人が出現し始めており、関東では小田原北条氏の開祖となる「伊勢宗瑞(のちの北条早雲)」、北陸では「朝倉孝景(敏景とも)」、湖北には「浅井亮政」、湖南には蒲生氏の主家にあたる「六角定頼」といった後の有力戦国大名の礎を築いた大物がその才人たちですが、のちの蒲生氏の礎を築いた貞秀(室町的教養に富んだ人物ながら)も、上記の大物と比肩しゆる武将であったに違いありません。
 余談ですが、貞秀は自身の居城である音羽城付近(現:日野町鎌掛)に自生していた淡い紅色の野菜を見つけて、これを漬物にしたら、味良く、色合いも大変風流であったので、この漬物を親交があった公家・飛鳥井雅親に贈り、雅親も大変これを気に入り、遂には時の帝・後柏原天皇(第104代天皇)にも献上され、後柏原帝も献上された漬物をお気に召されて、そのお気持ちを賛美を込めて「近江なる ひものの里の さくら漬け これぞ小春の しるしなるらん」という歌をお詠みになられました。この後、貞秀が見つけた野菜は「日野菜(蕪の一種)」と呼ばれ、この漬物を「さくら漬け」と呼ばれるようになったそうです。そして、蒲生氏が京都へ上洛する際は、必ず「さくら漬け」を朝廷に献上するようになったと言われています。
 更に上記の「日野菜」について記述させて頂くと、現在でも日野菜は滋賀県発祥の伝統野菜として全国的に有名になったと言われ、滋賀県名物の漬物としても高い知名度を誇っているそうです。貞秀の子孫である氏郷は、優れたデベロッパーとして「三重県松阪市」「福島県会津若松市」というように、地方都市の繁栄の礎やその名称を現在でも遺している功績がありますが、貞秀は現在でも食されている野菜(農業面)で大きな足跡を遺していることに筆者は驚きました。蒲生氏は色々な面で現在に伝えているモノがあるのであります。
1513年貞秀は死去。蒲生氏の家督は長子・秀行(15代当主)が1年前に死去していたために、貞秀の遺志により嫡孫の秀紀(16代当主)が継ぎ、蒲生氏の本城である音羽城城主になりました。しかし、秀紀の叔父にあたる高郷(貞秀次男)は甥の秀紀が蒲生氏当主になったこと、所領の分配などに不服がありました。
 当初、秀紀は高郷の娘を娶るなど高郷と友好関係を築いていましたが、1522年7月、蒲生氏の主家筋である六角定頼の助力を得た高郷は、遂に秀紀に対して蜂起し、音羽城を攻囲しました。秀紀もよく戦いましたが、六角氏の支援を得た高郷には敵わず、8ヶ月の激戦後1523年4月、秀紀は降伏し、当主の座と音羽城(この後廃城)を追われ、鎌掛城へ身柄を移された挙句、2年後の1525年12月に高郷の手によって暗殺されています。
 秀紀との骨肉相食む争いで勝利した高郷は蒲生氏17代当主となりましたが、南近江での強い勢力は相変わらずであり、妻の実家である青木氏を自身の子を養子として送り込み自勢力に取り込み、また高郷の嫡男・定秀には六角氏の一族であり家老であった馬淵氏の娘を室として迎え入れるなどして、高郷は外交調略によって六角氏家中での蒲生氏の地位は確固たるものになってゆきました。秀紀を追い落として蒲生氏本家を乗っ取り、婚姻政策などで蒲生氏の勢力を拡大していった高郷は、戦国期に生きた下克上の典型であり、戦国武将として蒲生氏を興した人物というべきでしょう。

蒲生氏の名当主たち

 戦国武将・蒲生氏の勢力を確固たるものにした高郷は1530年に死去、嫡男・『定秀』が蒲生氏18代当主となりました。この定秀が氏郷の祖父に当たる人物なのですが、この定秀も相当の器量人であり、軍事・外交は勿論、特に内政面で優れた功績を挙げており、1533年頃から3年の歳月を費やして蒲生郡中野の地に新しい本拠地・日野城(中野城)を築き、城下町の設計(町割)にも着手し、この時に堅地町・塗師町に漆器職人(木地師・塗師)たちを集住させ、伝統工芸となる「日野椀」の生産が開始されるようになり、氏郷の代に会津若松に転封した際に、氏郷が会津の商業発展のために日野椀職人が会津に招聘され、日野椀の製造技術が、のちの会津藩の重要な工芸品となる「会津漆器」が誕生するに至るのであります。
 日野城とその城下町が、1584年氏郷が伊勢国(現:三重県)松ヶ島12万石に移封されるまで蒲生氏の本拠となるのですが、江戸期に「日野の千両店」と称せられるほど、同期の商工業の発展に活躍した近江商人たちの発祥の地とされる日野の城下町および遠く離れた伝統工芸品「会津漆器」の礎は定秀によって築かれたのであります。当初、筆者は定秀の孫である氏郷が文武や茶道などに精通する当代切ってのインテリ武将であり、名デベロッパーであったのは、少年期に織田信長という天才デベロッパー(重商主義者)の下で過ごして、その信長を師として仰いでからであるからと思い込んでいましたが、(勿論、信長から商才を学んだこともあると思いますが)、氏郷が開花させる才能の素地は、祖父・定秀から濃厚に受け継いでいたものと思われます。
 定秀の優れた器量(先見性)を示すものとして知られるのが、いち早く鉄砲の有効性に着目し、日野の城下町に鉄砲鍛冶職人を招聘し、独自に鉄砲生産を試みていることであります。しかし、司馬遼太郎先生の一大紀行シリーズ『街道をゆく24 近江散歩』で紹介されているには、日野で生産される鉄砲の品質は決して良いものではなかったらしく、当時「日野の安鉄砲」という言葉があったことを紹介され、更に当時国内最高水準を誇っていた近江国友村鉄砲鍛冶の人々から、日野の張立(鉄砲製造方法)のしかたの拙さを「うどん捲き」と呼んでいたことを司馬先生は紹介されています。

 

 定秀が実施した城下町の町割、日野椀の生産奨励などで財力を付けた蒲生氏は、主家・六角氏の宿老中の宿老として更に勢力を増してゆく一方で、六角氏(当主:義治)は1560年8月、宿敵であった湖北の浅井長政との合戦「野良田の戦い」で大敗して以来、権威を失墜させ配下国人衆の統制が効かなくなってゆきました。そして1563年、義治は智勇に優れ六角氏の宿老で1人で、家中内でも人望が厚かった後藤賢豊・壱岐守父子を観音寺城(六角氏居城)で暗殺する「観音寺騒動」を引き起こし、これにより六角氏は南近江での統制力を大いに弱める結果となってしまい、宿敵の浅井氏に寝返る家臣団が続出した挙句、遂には賢豊暗殺に反発した一部の家臣団によって、当主である義治、隠居していた父・義賢(承禎)は観音寺城から追放されるという憂き目に遭っています。義治からしてみれば、宿老で家中でも大きな権限を持つ後藤父子を暗殺して、浅井氏との敗戦以来、弱まりつつある義治集権体制を強めようとしたと考えていたかもしれませんが、結果的にこれが裏目に出てしまったのであります。
 主家である六角氏が上記の大騒動で権威を失墜させたことにより、当主である義治とその父・義賢は家臣の手によって、居城を追われてしまうことになったのを救ったのが、定秀・『賢秀』父子の蒲生氏でした。この頃になると蒲生氏と六角氏の実力は逆転、定秀の実力は主家の六角氏を上回っており、城から追放され生活苦で悩む義賢・義治父子に対して金銭を貸して主君を救済したばかりでなく、定秀と賢秀が義賢・義治と六角氏家臣団との間を仲介、義賢たちを観音寺城へ戻れるように尽力しています。
 上記のように定秀は、1560年代になると主家・六角氏を凌ぐほどの勢力を誇っており、南近江の有力国人領主・蒲生氏として独自の勢力を築き上げており、六角氏とは別に徳政令などの政策を領内で実施したり、外政面では、伊勢経略に着手し、同国の有力勢力であった関盛信・神戸具盛(かんべとものり)に自身の娘を嫁がせるなどの政略結婚を行うことにより、蒲生氏の影響力は隣国の北伊勢にまで及ぶようになっていました。
 定秀、というより蒲生一族の面白さは、以上のように六角氏を凌駕するほどの勢力を内外に誇っているにも関わらず、主家である六角氏を追い落しや無礼な所業(下克上)を行っていないばかりか、寧ろ観音寺騒動で追い詰められた義賢・義治父子を救っているという「義理堅さ」があったということであります。この蒲生氏の六角氏に対しての義理堅さは、六角氏が織田信長によって滅ぼされるまで続くことになります。

 

 定秀の嫡子である賢秀も、父と同じく斜陽が著しい六角氏の重鎮中の重鎮として仕え、先述の観音寺騒動(1563年)で窮した主君・義賢・義治父子を救い、1567年、六角氏とその配下の有力家臣団20名の間で制定された67ヶ条からなる分国法『六角氏式目(義治式目)』の家臣団側の連署(連名)には、賢秀が定秀と共に加わっており、賢秀も定秀と同じく六角氏家中内で占めていた地位の高さがわかります。因みに、分国法とは有力戦国大名が自分の領国経営(民事・軍役・領民支配など)を円滑にするために制定された法律です。これを領内に制定することにより、戦国大名は統治者として自分の権威を配下の家臣や寺社・領民に示して、領国を統制してゆくことを第一目的としており、中でも駿河国(現:静岡県東部)の今川氏が制定した「今川仮名目録」、その今川氏の分国法に触発された甲斐国(現:山梨県)の武田氏が制定した「甲州法度次第」などが有名であり、両法とも領国経営を司る有力戦国大名として、配下家臣や領民を統治してゆくという気概のようなものが見受けられるのですが、一方の六角氏式目は、定秀・賢秀父子などの六角配下の有力家臣団が、観音寺騒動で権威を失墜させた主君・六角氏に対して大名としての権限を制限するといった内容となっています。つまり六角氏は完全に蒲生氏などの有力家臣団に対する統制力は完全に失われた結果となり、有名無実となった六角氏の領土である南近江は、あたかも有力国人衆が群雄割拠する状況となったのであります。

織田信長の台頭と蒲生氏

 六角氏が衰退してゆくことを好機と捉えた戦国大名が織田信長であります。六角氏式目が制定された翌年の1568年、既に尾張・美濃・北伊勢まで版図を拡げていた信長は、次期足利将軍家候補・足利義昭を奉戴し、て、同盟者であった浅井氏・徳川氏などの来援を含める大軍(4万から5万と言われています)を率いて上洛の途につきました。信長が大軍率いて出撃した美濃から京都の通り道となっている六角氏(南近江)は、観音寺城を中心として、箕作城・和田山城などの18の城砦群を防衛ラインとして信長の大軍を迎撃します。賢秀も六角軍として1千の将兵ともに居城である日野城に籠城して、織田軍の猛攻を凌いでいました。しかし、肝心の本戦というべき六角軍の観音寺城を中心とした防衛ラインは、僅か1日も経たずに難なく信長の大軍によって破られ、籠城で長期戦を考えていた義賢・義治父子は信長軍の猛攻に戦意を喪失させ、観音寺城を放棄して南近江の最南端である甲賀郡に後退し、戦国大名としての六角氏は事実上滅亡しました。
 主家である六角氏が滅亡後も、義理堅い賢秀は信長に降伏するどころか引き続き日野城に立て籠もり、織田軍の大軍(大将:柴田勝家)に頑強に抵抗を続けていました。突然ですが、播磨国三石城(現:岡山県備前市)の城主であった江村氏の出身者である戦国末期〜江戸初期の医師かつ儒学者であった江村専斎という人物が語ったとされる幅広い内容(戦国武将の逸話や軍事、当時の医術など)を、専斎の弟子である伊藤坦庵(宗恕)が書き留めた随筆集『老人雑話(上・下の2巻)』というのがあり、これが「史籍集覧.第10冊」に収蔵されており、国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能となっております。老人雑話上卷に賢秀について記述されている箇所があるので、読んでみますと、以下の通りあります。

 

 『氏郷の父(つまり賢秀)は頑愚にして天性臆病の人なり。其時俗聞の小歌に、日野の蒲生殿は、陣とさえ云えやへをこきやると云いしは、此人の事なり』、つまり賢秀は愚かにして生まれつき臆病者であり、陣(合戦)と聞けば臆病風に吹かれてしまう、という何とも酷い賢秀評でありますが、氏郷を高評価されていた作家の海音寺潮五郎先生は、主家の六角氏が滅亡した際にも、「最後まで主家に付随って、小勢で日野城に拠って戦った賢秀が臆病者であるはずがない」と言っておられており、また海音寺先生を尊敬されていた同じく作家の司馬遼太郎先生も、賢秀を義理堅い武将と評されております。老人雑話は読んでいて面白い書籍ではありますが、賢秀評については筆者は思うところがあり、現代歴史小説の大家であられた海音寺・司馬両先生が賢秀を評価して下さったことに、賢秀が救われたような気がして、蒲生氏贔屓の1人である筆者としては少し嬉しい気持ちであります。

 

 賢秀はわずか1千の兵で日野城に籠り頑強に織田軍に抵抗しますが、結局は賢秀の妹婿(つまり定秀の娘婿)であり、当時信長の配下武将となっていた北伊勢の神戸具盛が単身日野城に赴き、賢秀を説得し、賢秀を織田軍に降伏させました。信長は頑強に抵抗した賢秀を殺すどころか、賢秀を気に入り、幾たびの合戦に賢秀を従軍させ、信長が安土城を本拠とした後は、信長が出陣した際などは賢秀を安土城の留守居役にするようになるほど賢秀を信頼しています。自分の家臣に対して厳しかった信長のような人物に信任されるほどであった賢秀が、老人雑話で酷評されたような人物ではなかったことがわかります。
 織田軍に降伏し、信長の家臣となった賢秀は忠誠の証として、自分の嫡子・『鶴千代』を人質として信長へ差し出しました。この鶴千代こそ、賦秀(やすひで)のちの『蒲生氏郷』でございます。漸く氏郷が登場致しますが、当時から商業や流通の先進地の1つであった南近江の名族(国人領主)であった蒲生氏に忽然として、戦国期随一のインテリ武将・氏郷が登場したのではなく、先祖代々が有能で教養人であり、(特に祖父にあたる定秀には優れた能力(商才)や先見性があったことがわかりますが)、この先祖の優れた血筋と南近江という恵まれた土地を素地として、氏郷が戦国期に誕生してきたのであります。次回はいよいよ筆者も尊敬する氏郷についての記事を記述させて頂き、国人領主を出自とする蒲生氏の後半紹介というものさせて頂きたいと思っております。