戦国時代の発端とは?

 日本中世史をご専門とする研修者や先生方の各氏によって諸説が挙げられていますが、凡そ16世紀〜17世紀前半日本全土(北は東北の陸奥国〜南は九州の薩摩国)を動乱の渦中に巻き込んだ時代を『戦国時代』と一般的に呼ばれています。
 『戦国時代』の発端となったのは、15世紀末に室町幕府の8代将軍・義政の次期将軍就任問題が過熱し、それに付随するように、有力守護大名である山名氏と細川氏の権力闘争、斯波氏や畠山氏の後継者問題などいった複雑な情勢によって勃発した大規模争乱・「応仁の乱」(1467〜1477)よって、当時の政府機関と言うべき室町幕府の権威が大いに失墜しました。
 これにより室町幕府は、日本各地の有力者(守護大名や豪族)を統制出来なくなり、諸勢力が各地で跋扈(ばっこ)し、互いに戦うようになった。とういのが戦国時代の始まりの定説であり、皆様も学校の日本史の時間でも先述のように習ったと思いますが、実は応仁の乱後にも、幕府は懲りずに10代将軍・義稙(義材)と11代将軍・義澄の間で将軍継嗣問題で内紛が勃発し、畿内諸国の守護大名たちは両派に分かれ、争う事態となりました。これを『明応の政変』(1493年)と呼ばれていますが、この騒動は応仁の乱の影に隠れてあまり知られていませんが、この明応の政変こそ、「戦国時代の発端」という説もあります。
 以上のように、『応仁の乱』次いで『明応の政変』が戦国時代という大火事を引き起こした「決定的な火元」となったのは間違いありませんが、実はそれ以前より火種がくすぶっていたのでした。

 

 足利尊氏が征夷大将軍として14世紀中頃(1338年)に京都にて室町幕府を開府し、3代将軍・義満の時代となり、56年の長きに渡り続いた内乱・南北朝争乱(1336年〜1392年)に終止符が打たれた以来、日本は短期間ながらも平和な時代が到来し、京都を中心に茶道や能楽など日本文化が芽吹き始めました。しかし、古今東西を問わず歴史は、「乱」と「和」を必ず繰り返すのが道理でありまして、義満以来の「和」が徐々に綻び始め「乱」の時期に入って行くのは、「万人恐怖」「悪御所」と民衆を畏怖せしめた6代将軍・義教(よしのり・1428年1月に将軍に就任)が持ち前の苛烈な性格により幕府の集権化を目指し、守護大名や宗教勢力に対して様々な締め付けや介入を行った結果、様々な内乱(永享の乱・結城合戦・延暦寺との抗争・大和永享の乱など)を引き起した果て、義教自身は配下の名門守護大名・赤松満祐(みつすけ)により暗殺され、その満祐も後に、幕府追討軍に領国・播磨国(現:兵庫県南部)で討ち取られてしまいますが、この一連の騒動を「嘉吉(かきつ)の変」と呼ばれています。
 良くも悪くも強烈なリーダーシップを発揮していた6代将軍・義教が横死した事は、室町幕府の権威を失墜させたのは間違い無く、守護大名の細川氏や山名氏などでお家騒動や内乱が発生し、8代目・義政で勃発してしまう応仁の乱の下火が出来上がってしまっていた状態でした。
 一連の顛末をご覧になって頂ければお分かりになるように、応仁の乱のみで日本国内は一気に戦国時代へ突入していったのではないのです。また応仁の乱が畿内を中心とする西日本で発生した争乱とするならば、東日本でも関東では、鎌倉公方と関東管領家・上杉氏(山内・扇谷)との諍いが大規模化した「享徳(きょうとく)の乱」(1445年〜1483年)という争乱も発生しており、後々の関東戦国期の遠因になっています。

 

 以上の如く、大まかではありますが、「戦国時代の発端」を紹介させて頂きました。兎に角にも、上記を書かせて頂いた筆者でさえも混乱する程の複雑な内乱次ぐ内乱を経て、日本は戦国の世に突入していった事がおわかり頂けたなら結構でございます。しかし、先述のように、応仁の乱・明応の政変が戦国時代への決定打となりましたが、この2つの大争乱は元を辿れば、「室町幕府のトップ(将軍)を巡る抗争」が元凶であり、それが周囲を巻き込み、乱れていった事になるのですが、「国の上(トップ)が乱れれば、下(世間)もまた乱れる」という事を歴史が我々に教えてくれています。

戦国時代とは?

 日本の戦国時代(約1467年〜1590年または1615年)という呼称は、古代中国大陸で、秦王政(後の始皇帝)が大陸を統一する以前の『春秋戦国時代(紀元前770年〜同221年)』から由来しています。日本の戦国時代の只中を生きた近衛尚通(1472〜1544)という公家は、自身の日記「後法成寺尚通日記(1506〜1536年までの記述あり)」で、1508年4月16日の項で、日本の争乱模様を『(春秋)戦国の世の時の如し』と書き記しており、当時を生きた人々にも当時が「戦国の世」と実感していたようです。
 因みに現代人の我々が、時代の区分の1つとして言っている『戦国時代』という述語が一般的に使われるようになったのは、明治時代以降と言われており、当時の人々は「戦国の世(乱世)」と呼んでおり、江戸時代の人々は、戦国時代の最高潮の時期に当たる年号をとって「元亀天正(1570〜1593年)の世」と一般的に呼ばれていました。

 

 戦国時代の概要のようなものを述べさせて頂くと、15世紀後期に応仁の乱・明応の政変によって当時の中央政府的存在である室町幕府(足利氏)の力が大きく衰退し、幕府によって任命されていた日本各地方を統治者たち、有力守護大名(山名・赤松・細川・斯波・畠山など各氏)の権威も失墜し、彼らの支配下にあった有力者(国人衆・守護代など)や新興の実力者が、力ずく(つまり闘争)で取って代わって上位になってゆく風潮、即ち『下剋上(下克上とも)』が横行し始めるようになり、それらの勢力が新たな力を持つべく、他の近隣勢力と闘争を繰り返した時代が戦国時代というものであります。
 上記の事を極端に現代風に比喩してみると、日本政府の統治力や警察力が極めて低下し、各都道府県の知事の力も弱り、秩序が大いに乱れ、副知事や市長、ひいては県庁や市役所勤務の課長、あるいは民間企業経営者といった「様々な経歴を持つ人物たち」が各々の上位者を無法状態で、蹴落として成り上ってしてゆくばかりでなく、隣接し合うA県とB県が自県の力を付けるため争い合うという様な状態、というべきでしょうか。当時の戦国時代というのは、そういう状態に近いものでした。その好例が、一介の油屋商人から美濃国(現・岐阜県南部)の戦国大名になった斎藤道三、三好氏の書記係(右筆)から大和国(現・奈良県)の国主になった松永久秀(弾正)であり、そして最たる例が、農民階級から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉の存在です。

 

 戦国期(室町後期)は、確かに中央政権である室町幕府の権力を失墜させ、それまで生産・経済流通・文化の中枢を担ってきた畿内(中央部)は「未曾有の動乱」が頻発した面もありましたが、その反面、それまで鄙びた(未開地)であったはずの地方では第一次産業である農業技術(鉄製農具や農耕家畜・灌漑設備、二期作など普及)が目覚ましく発展、農業生産力が上昇した事によって人口急増化し、それに伴って民衆には一次産業以外にも働く余力が生まれ、商工業・軍事従事者(つまり第二次・三次産業者)が増加することによって、流通経済が未曾有の大発展を遂げた面もあったのもまた確かであります
 上記のような、『中央(都会、幕府)が動乱で停滞し、反比例するように地方(田舎)が活性化する』という情勢であったから日本各地には伊達・北条・上杉・武田・織田・毛利といった強豪を含める戦国武将が、中央政府である室町幕府を差し置いて、各々、地方国家の如く群雄割拠することが可能であったのです。戦国期には、動乱という面以外にも、上記のような発展という側面もあったのであります。

 

 余談ですが、歴史愛好家の皆様の間では、日本の戦国期と中国大陸の三国志時代を比喩される事が多いですが、中央政権が廃れ、数多の有名無名の英雄武将が輩出されたという点では、日本戦国期と中国三国時代は似ているのですが、日本戦国期では上記の如く、日本各地の生産力が向上、人口増加期した事により地方で戦国武将が興りましたが、中国三国時代は、未曾有の天変地異により生産力が低下し、人口が激減した結果、民衆は、「食物」を求めて広大な大陸を流動し、結果的に「食物」を補償してくれる三英雄(即ち曹操・孫権・劉備)の下に、其々集い、三国(魏・呉・蜀)の地方政権が鼎立するようになったのが中国三国時代の実情であります。 「食物が潤沢で、活気付いた中で誕生した戦国武将」と「飢饉の中で、誕生した三国の英雄豪傑たち」。両者には、情勢的に大きな違いがあるのであります。

戦国の世を生きた大名(武将)たち

 室町幕府の権威失墜により、古い権威や秩序が形骸化されてゆく「戦国の世」で地方を中心に実力を蓄え、「戦国大名」であります。
様々な文献に拠って、簡潔に戦国大名という存在を述べさせて頂くと、発展してゆく各地方に本拠を置き、独自の国家を構築していった人物たち。という事になるでしょうか。つまり地方国家のトップが戦国大名であります。室町幕府の「守護大名は、幕府のお墨付きを貰った地方国家の首相というべき存在であり、地方の国人・被官・領民を統治していた存在」でしたが、対して『戦国大名は、衰弱した幕府の意向に関係なく、独力(軍事・裁判権)で、己の領国(家臣(家中とも)、領民)を治めていました。その点が守護大名と戦国大名の違う点であります。これらの相違点を学術専門用語では、「守護大名統治制」「戦国大名統治制」と言われていますが、諸事に対してものぐさの筆者からしてみれば、何とも堅苦しく感じ、これらの単語を覚えるのも嫌気が指してしまうのもであります。
 もっとも腐っても鯛、という表現があるように、いくら衰弱した幕府とは言え、幕府の肩書(役職)は戦国期でも形骸化でも生存しており、幕府の権威を尊重する戦国大名(特に上杉謙信、武田信玄など)は、幕府の肩書(守護職など)を自分の領国統治の大義名分として掲げていた例があり、幕府の権威を徹底的に利用し尽くしたのが織田信長であり、彼の勢力拡大を謀りました。

 

 戦国大名に仕えていた侍(被官)や豪族(国人)を『家中(かちゅう)、家臣団』と呼ばれていましたが、それを上手く統制してゆくのが戦国大名の最重要課題であり、彼らが一番苦心した点でもあったでしょう。戦国大名は決して超越した絶対権力者ではなく、家中の構成員である被官や国人も中小規模ながらも所領(勢力)を持った重役的存在であったので、大名も家中の意向を完全無視して、独裁的に領国を統治してゆくことは不可能でした
 よって戦国大名側では、自分に仕えている被官・国人たちの所領の所有権を保証してやり、合戦で手柄を立てた者には恩賞として領地を加増したりして、被官・豪族の忠誠心を掴む事に腐心し、それに拠って家中である被官・国人側では、自分達の生活基盤である所領をしっかりと保証してくれる戦国大名に忠誠を誓い、彼の為に働くという関係でした。つまり「戦国大名」と「家中」の関係は、『Give and Take、双務契約関係』でした。もし、戦国大名の力が弱体化などが原因によって、家中の意に沿えない統治や彼らの所領保証が上手く出来なくなったら、家中である被官や国人は容赦なく、自分が仕えている戦国大名を見限り、反旗を翻したり、他の大名家に寝返ったりしました。その好例が、名将・武田信玄以来、隆盛を誇った甲斐武田家が信玄死後に徐々に弱体化し、遂に1582年、織田信長・徳川家康・北条氏政連合軍に武田領が侵攻された時、長年武田家家中の中心的存在であった有力国人衆の木曾氏・穴山氏・小山田氏などが相次いで主家である甲斐武田氏を見限り、織田・徳川に寝返って、あえなく甲斐武田家が滅亡したケースがあります。
 「戦国時代は、裏切りが多い時代」とよく言われますが、それは、戦国大名の家中を成している被官や国人が己の所領を護るための必死な行為がそれ程、多かったからであり、またその行為を特に卑怯とも当時は思われていませんでした。「一所懸命」という四字熟語は、鎌倉期の武士が命懸けで自分の一所(所領)を護るという行為が由来だと言われていますが、それは戦国時代の武家社会でも変わらぬものでありました。よって戦国大名たちが、自分の家中を上手く統治しながらも、勢力拡大をしてゆくというのは、とても至難の業でした。

 

 戦国大名が家中と統制してゆく上で、一番大事であったのが、家中間(つまり国人vs国人)の紛争(主に領地争い)を調停してゆく事にありました。兎に角、戦国時代では敵対勢力と戦うのもありましたが、味方である家中同士の諍いというのも頻発していました。それを主家である大名が、家中の不満が残らないように裁定してゆく事が大きな仕事の1つでした。つまり大名は、家中を取り仕切る首相であると共に、裁判長の仕事も兼任していた様なものであります。これは敵対勢力と合戦するよりも重要な仕事であった筈です。味方である家中が内乱状態では、とても敵と戦う事は不可能であるばかりか、最悪の場合は、自勢力の自滅にもなりかねないですから。
 1556年、越後国(現:新潟県)を統治していた有名な戦国大名・長尾景虎(後の上杉謙信)は、度重なる家中間の領地争い(内紛)や裏切りに嫌気が指し、大名の責務を放り出して、一時期紀州高野山へ家出してしまうという騒動を起こしています。現在でも武田信玄と並んで戦国大名の双璧と謳われる名将・上杉謙信(景虎)でも家中の統治には辛酸を舐めた事を如実に物語った逸話であります。しかし、それにしても、当時の謙信にも言い分はあると思いますが、家中間の諍いを調停するどころか、それに嫌気が指し、職場放棄してしまうという事をやった時点で、合戦では最強である謙信とは言え、自ら戦国大名としての失格の烙印を押してしまった事は否めませんね。謙信贔屓を自負して止まない筆者でさえも、そのように思ってしまうのですから、戦国大名・上杉謙信の経歴に大きな汚点を残してしまいました。
 その反面、謙信のライバルでる武田信玄は、かなり苦心しながらも我の強い連中が集う武田家中を硬軟の方策を織り交ぜて統治して、本国の甲斐のみならず、信濃国(現:長野県)、晩年には西上野国(現:群馬県西部)、駿河国(現:静岡県東部)に勢力を拡大しているので、戦国大名の資格としては謙信よりも信玄の方が一枚も二枚も上手であった事を物語っています。

 

 兎に角にも超有名な戦国大名・上杉謙信と武田信玄でさえも、自分の家中間の紛争調停や統治に苦心していた事がお解り頂けましたでしょうか?決して戦国大名とは、偉そうにフンズリかえって自分の家臣に命令していた絶対的存在ではなかったのです。正に「戦国大名はつらいよ」であります。

 

 以上のように、今回は戦国時代およびその時代を生き抜いた大名たちについて少し紹介させて頂きましたが、次の記事では、その戦国の世を彩った戦国大名のバラエティーに富んだ出自について紹介させて頂きたいと思っています。ご興味のある方は、そちらの記事もご一読して頂ければ嬉しく思います。