「国人領主」であった有名戦国武将

 古くは朝廷・貴族政権であった平安期の荘園を管理する「荘官(有力農民層)」や武士政権のはじまりである鎌倉期の「地頭職(御家人たち)」などが各国に土着し、『在地に独自勢力を持つ武士』たちを『国人領主(国衆・在国衆)』または『土豪』などと呼ばれますが、戦国期(室町後期)になると、その国人階級を出自とする戦国武将が多く存在しました。今更ながらですが、先の記事で紹介させて頂きました「守護大名」「守護代」を出自とする戦国武将たちも原点を辿ってゆくと、本来はこの国人階級の筆頭有力者であります。
 国人領主(土豪)を出自とし、戦国武将(大名化)していった有名な存在として挙げられるのは、先ず近年のNHK大河ドラマで更に脚光を浴びるようになった真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)父子の『真田氏』は、信濃国小県郡(現:長野県上田市一帯)の一国人領主であり、また同じく今年の大河ドラマの主役である『井伊氏』も遠江国(現:静岡県西部)にある井伊谷を領する国人領主でありましたし、中国地方に目を向けると戦国随一の策略家として名高い毛利元就の『毛利氏』も安芸国(現:広島県西部)吉田郡山の国人領主であり、他にも近畿では近江国(現:滋賀県)の湖北一帯を抑えていた『浅井氏』、四国の土佐国(現:高知県)からは、歴女の皆様にも人気が高い長宗我部元親の『長宗我部氏』、九州では肥前国(現:長崎県・佐賀県)からは『龍造寺氏』などが出ています。そして何よりも約260年間にも及ぶ太平な時代を築き上げた徳川家康の出自も元を辿れば三河国(現:愛知県東部)の国人『松平氏』であります。
 上記のように、有名どこの戦国武将でも『国人領主』を出自とする数多に存在しますが、今記事では、全部の国人階級出身の戦国武将を紹介するのはさすがに話が大仰になってしまいますので、一部となってしまい恐縮ですが、各地方の国人領主出身の戦国武将の紹介させて頂きたいと思います。
*国人を出自とした戦国武将は実に多いので、『東北・甲信編』『東海・近畿編』『中国・四国・九州編』といったように分割し紹介させて頂きたいと思いますので、ご了承下さいませ。

「国人領主」を出自とする戦国武将(東北編)

1.東北地方

 

『南部氏(陸奥国、現:岩手県北部および青森県一帯)』:甲斐国(現:山梨県)の戦国大名・武田信玄の甲斐武田氏と同族で名門武家・源氏の血流を汲む南部氏は、鎌倉期に源頼朝から陸奥国糠部五郡の領地を与えられて土着し、本家筋の三戸南部氏や一戸氏・九戸氏など分家筋にわかれ、室町期にかけて陸奥国内で勢力を拡張してゆきました。
 戦国期になると、三戸南部氏の24代目当主・南部晴政は、勇猛果敢な名将であり、戦国大名・南部氏の最盛期を築き上げ、俗に「三日月の丸くなるまで南部領」と呼ばれるほどの版図を広げました。先の意味は、三日月の頃に南部領に入ると、そこを出る頃には既に満月になっている、というほど広大な範囲であるという事を意味しています。

 

『安東氏のちに秋田氏(陸奥および北出羽国、現:秋田県)』:諸説はありますが、平安末期に奥六郡(現:岩手県)で強大な勢力を誇った俘囚(蝦夷)の長・安倍氏を祖先としている安東氏は、津軽地方を本拠とし、下北半島・出羽秋田郡までの領土を持ち、また鎌倉後期には中国大陸・北海道のアイヌ民族との交易拠点であった良港・十三湊(とさみなと、現在の十三湊遺跡は国指定史跡)も支配下に置き、勢力を拡張。室町期には「湊安東氏(上国家)」と「檜山安東氏(下国家)」の2家に分かれ並立しますが、戦国期になると、檜山安東氏より文武に優れた安東愛季(すえちか)が登場し、当時廃絶の危機に瀕していた湊安東氏を統合し、戦国大名として成長。その後の愛季は、南部氏や戸沢氏などの他の戦国大名たちと抗争を繰り広げ、安東氏を北出羽国最大の戦国大名までに発展させました。その愛季の活躍ぶりに人々は彼のことを「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と賞賛したそうです。

「国人領主」を出自とする戦国武将(甲信編)

2.甲信地方

 

『真田氏(信濃国、現:長野県)』:ご存知、真田信繁(幸村)で有名な真田氏ですが、本来は信濃小県郡真田郷一帯を統治する一地方国人でありました。真田氏が興った詳細な経緯は未だ不明であり、典型的な一地方豪族出身であるために系譜が不透明であるのは仕方がないことであります。
 真田氏は北信濃の名族・滋野氏直系である「海野(うんの)氏」出身であるのが通説となっていますが、他にも古来より優れた馬産地として知られていた真田・禰津などにあった官牧(現代でいう官営馬牧場)を管理する大伴氏が真田郷に土着し、国人領主化した説、名族・滋野一族の傍流である根津氏を出自とする説、等々があり真田氏の源流は現在でも学者諸氏の先生方の間でも論議が交わされているようです。
 戦国期に、真田氏の礎を築いた人物は「真田幸綱(一徳斎)」という人物であり、信繁や初代松代藩主となる信幸(信之)の祖父に当たります。幸綱は近年までは「幸隆」という名前で知られていましたが、それは晩年の頃に名乗ったのみであり、幸綱を名乗った期間の方が長かったと最近の研究でわかってきています。余談ですが、NHK大河ドラマ「武田信玄」や「風林火山」では橋爪功さん・佐々木蔵之介さんが幸綱(役名は幸隆)を演じられており、筆者の印象に残っています。
 幸綱(幸隆)は、主家筋にあたる海野氏に従い、海野平の戦いで村上氏(後述)・諏訪氏・甲斐国(現:山梨県)の武田信虎(信玄の父)の連合軍と戦いますが敗北、領地である真田郷を失い、一旦は海野氏と共に上野国(現:群馬県)に落ち延びますが、後に仇敵関係にあった甲斐武田氏(しかし当時の当主は晴信(信玄))に出仕します。伝説ではこの幸綱を武田氏へ勧誘したのが、武田信玄の軍師・山本勘助だと言われていますが、真相は不明であります。
 武田氏に仕えた幸綱は先方(外様)衆として、持ち前の知略を活かして、村上氏の属城・砥石城の奪取(調略)などで活躍、旧領であった真田郷を奪還し、真田氏再興を果たしています。その後も越後長尾(上杉)氏との川中島の戦いなど重要な合戦にも出陣しており、武田氏の外様でありながら、重鎮の地位を占めるようになります。上杉氏との戦いが落ち着いた後は、上野国方面の攻略を委任されるようになり、武田氏が上洛(西上作戦)を敢行した際には、上州方面の守備しています。
 1574年6月、幸綱は死去し、真田氏の家督は幸綱の長男・信綱が継承しますが、翌年の1575年に織田・徳川連合軍との長篠設楽原の戦いで信綱、次弟・昌輝(幸綱次男)が相次いで戦死し、真田氏の家督は幸綱三男で武田氏の奥近習(小姓)として出仕していた昌幸(当時は武藤喜兵衛)が継ぐことになります。皆様ご存知の通り、この昌幸こそが後年、2度の上田城攻防戦で徳川の大軍を翻弄した類稀なる戦術家であり、信幸・信繁兄弟の父にあたる人物であります。天下人・豊臣秀吉をして『表裏比興の者(食わせ者)』と言わしめた人物としても有名であります。因みに、むかしの時代劇ドラマ『真田太平記』では故・丹波哲郎さんが昌幸を見事に演じ切られ、近年の大河ドラマ『真田丸』では草刈正雄さんが昌幸役を演じられ、その怪演ぶりが大きな話題になったことが記憶に新しいです。
 昌幸は、1582年に主家の武田氏が織田氏に滅ぼされた後、主家を織田・徳川・小田原北条・上杉など情勢に応じて変え、この過程で第一次上田合戦で徳川軍7千の軍勢を僅か2千余りの小勢で撃破しており、信州の一国人領主(小勢力)に過ぎない真田氏の命脈を保つことに成功したばかりではなく、天下に真田の武名を轟かせるまでに至りました。最終的には、織田信長亡き後の天下人・豊臣秀吉に臣従、真田の本拠である小県郡などを治める豊臣系大名に取り立てられ、国人領主・真田氏から大名として飛躍しました。
 秀吉亡き後の天下分け目・関ヶ原の戦いの折りには、昌幸と次男・信繁は西軍(毛利輝元・石田三成など)に味方し、長男・信幸は東軍(徳川家康)に組みすることになります。この時の真田父子の決別を「犬伏の別れ」と呼ばれ、真田氏を主題に扱ったドラマなどの見せ場の1つとなっていることは周知の通りであります。
 西軍側となった昌幸・信繁父子は上田城にて徳川秀忠(後の江戸幕府2代将軍)が率いる徳川軍の主力・3万8千の大軍勢を得意のゲリラ戦法などで翻弄、本戦である関ヶ原の戦いに参戦させないという芸術的な名勝負を繰り広げます。これが第二次上田合戦と呼ばれていますが、結果、皆様ご存知の通り、肝心の本戦・関ヶ原では、西軍は東軍によって敗北し、局地戦で善戦していた昌幸・信繁父子は図らずも負け組となってしまいました。
 昌幸・信繁父子は、東軍に与した信幸や彼の舅にあたる徳川重臣(四天王の1人)・本多忠勝などの嘆願により助命され、紀伊国九度山(現:和歌山県九度山町)に流罪に処せられました。昌幸は罪を赦されることなく、1611年7月に流罪地である九度山にて死去し、残った信繁、つまり真田幸村は、4年後の戦国期の総仕上げである豊臣・徳川の合戦・大坂の陣に豊臣方として参戦し、真田丸の戦い・道明寺の戦い・岡山四天王寺の戦いなどで獅子奮迅の活躍をした後、戦死。『真田日本一の兵』と人々から賞賛を受けることになります。これにより、大名・真田氏の名跡は信幸(関ヶ原後、信之と改名)が継ぐことになり、紆余曲折を経て江戸期250年間を信州最大の大名・真田氏(松代藩)として生き残ってゆくことになります。
 現代日本に真田氏を勇名を遺すことができたのは、明らかに信繁(幸村)が第一功労者であることは間違いないのですが、それ以前に彼の祖父である幸綱(幸隆)、父・昌幸といった真田氏中興の祖がいたからこそ信繁も最後の最後に大坂の陣で活躍できたのであります。決して信繁1人のみの手柄だけではありません。そして、真田の家名を後々まで伝えた守成の名君・信幸の功績も多大であります。実の父と弟と袂を分かち、的確な政治判断で以って真田の家名と領国という重荷を生涯を賭して護り抜いたということは、身軽な立場(流人)で華々しく散って逝った信繁よりも遥かに器量人であったと筆者は強く思っています。(白状すれば、筆者は弟・信繁よりも兄・信幸の方に魅力を感じており、かなり信幸贔屓をしております)

 

『信濃村上氏(信濃国)』:源八幡太郎義家など代々武家の棟梁の家柄である河内源氏の流れを汲むとされている信濃村上氏は、平安末期頃より信濃更埴地域(のちに埴科郡坂城町一帯)に土着し、鎌倉〜室町期を北信国人領主として生き残り、戦国期になると、猛将・村上義清が登場し、同じ国人領主である北信の高梨氏・井上氏・海野氏・真田氏・滋野氏、信濃守護の小笠原氏などと抗争を繰り広げており、1541年の海野平の戦いで海野・真田両氏を撃破し、小県郡を支配下に置きました。義清は優れた戦術家であり、集団戦法の1つとして長槍を活用した「槍衾戦法」を考案し、戦いに勝利したと言われています。後述の武田軍を撃破したのも、この長槍戦術が効いていたのかもしれません。
 海野平の戦い後、甲斐の武田晴信(信玄)が信濃国に侵攻を開始し、守護小笠原氏や諏訪氏・高遠氏など南信の諸勢力を降すと、北信に拠る村上氏の領地である小県郡南方にも侵略して来ました。そして1548年3月、義清は「上田原の戦い」で晴信率いる精鋭・武田軍と対決、兵の数では劣っていたと言われる義清でしたが、奮戦して武田軍を撃破し、総大将の晴信を負傷させ、板垣信方、甘利虎泰といった武田氏の双璧を討ち取るほど戦果を挙げ、武田軍の侵略を退けています。信濃侵攻以来、名将・晴信の武田軍は常勝軍団であり、後にも戦国最強軍団として信玄(晴信)率いる武田軍は織田信長や徳川家康など諸大名に畏怖され続けますが、その晴信と武田軍の輝かしい戦歴に「敗北」の2文字を最初に刻み込んだのが義清でありました。
 猛将・義清が武田軍を撃破したのは、上記の上田原の戦いのみではありません。1550年9月、義清が高梨氏と戦っている隙を突き、晴信は上田原の雪辱を晴らすために7千の軍勢で再び村上氏の小県郡に侵攻。村上氏の重要拠点である砥石(戸石とも)城の攻略を開始します。砥石城の守備兵はわずか5百と言われていましたが、周囲が急峻な断崖となっている難攻不落の砥石城と戦意が高い守備兵の前に武田軍は苦戦を強いられます。
 砥石城が武田軍に攻められる、という報に接した義清は対峙中の高梨氏と急遽和睦し、村上本軍2千を率いて砥石城救援に向かいます。砥石城と救援に来た義清本軍に挟み撃ちされた状態になった武田軍は撤退を開始しますが、義清はすかさず武田軍に猛追撃を敢行し、武田軍1千近くを討ち取り、武田軍の足軽大将であった横田高松といった武田軍の武将も多く討ち取りました。武田側ではこの大敗北のことを「砥石崩れ」と呼んでいます。
 義清は兵力が劣っているにも関わらず、「上田原の戦い」「砥石崩れ」で2度も精鋭・武田軍を撃破しているのであります。晴信も義清の戦上手ぶりには懲りたようで、合戦といった正面作戦から謀略作戦を主とする側面攻撃へ変更し、策略で村上氏内部崩壊を誘います。そこで活躍したのが、先述の真田幸綱であります。
 幸綱は、砥石崩れの翌年1551年5月に、あれほど武田軍を苦しめた砥石城を内応工作で奪取します。実は幸綱の実弟にあたり村上氏に仕え、砥石城の守備をしていた矢沢頼綱(のちに真田氏の筆頭家老)という人物を武田軍に投降させ、城を内部から攻略したのであります。
 砥石城を失った義清は、これが原因となり徐々に武田軍に追い込まれ、配下の国人領主である屋代氏・大須賀氏たちの離反も相次ぎ、1553年8月、遂に義清は完全に武田軍に追い詰められ、本拠地である葛尾城(埴科郡坂城)を放棄し、越後国(現:新潟県)の有力戦国大名・長尾景虎(のちの上杉謙信)の下へ亡命しました。結果的に義清の代で戦国大名・村上氏は滅亡しましたが、義清とその息子・国清は長尾氏の配下として生き残りました。
 武田軍は南信に続き、村上氏を降し北信にも版図を拡げたことにより、越後の長尾氏と接することになり、これが有名な上杉謙信vs武田信玄の『川中島の戦い』に繋がってゆくことになります。

 

 他にも、甲信地方には数多の国人領主を出自とする戦国武将が存在します。信濃は守護である小笠原氏の力が衰退すると、各地の盆地(平)を拠点とした国人領主が割拠した状態が長く続きました。現在の志賀高原辺りに拠っていた『笠原氏』、古来より日本在来種馬・木曽馬の産地で有名な木曾地方を有していた『木曾氏』、高井郡の『保科氏』等々が存在しました。
 甲斐国でも各盆地に国人が存在し、郡内(現:大月市)を拠点とする『小山田氏』や河内地方(現:西八代郡と南巨摩郡)を拠点とする『穴山氏』といった有力国人領主をはじめ『工藤氏』『馬場氏』『長坂氏』『飯富氏』などの国人領主も甲斐国内には割拠していました。守護大名である武田氏が勢力を伸ばすことによって、前述の国人領主たちは武田氏の傘下に組み込まれた状態でした。
 甲斐・信濃を基盤として戦国の世に立った武田信玄は、この数多の国人領主たちを相手に攻略、あるいは篭絡し勢力を伸張してゆき、その反発により遂には強敵・越後の上杉謙信と対峙することになってしまい、これが信玄の勢力伸長の足枷になってしまい、東海から出てきた織田信長の後塵を拝する結果なりました。恐らく信玄は、甲信に存在する多くの国人領主を手懐けるだけでヘトヘトになっていたに違いありません。