バラエティーに富んだ戦国武将の出自

出典は失念してしまいましたが、『乱起これば英雄が誕生する』という言葉が確かあったと思いますが、15世紀後半〜16世紀の日本は、それまでの室町幕府が打ち立てていた秩序(身分制度)が乱れ、動乱真っ只中の戦国時代でしたが、その波乱に富んだ時代であっただけに、有名無名問わず様々な身分階級出身者の戦国武将(英雄)たちが誕生し、日本各地に割拠していました
 主な戦国武将(大名を含む)の出自を探ってみると、「守護大名」「守護代」「国人」「奉行(家臣層)」「商人(運送業者を含む)」「水軍」「僧侶(宗教)」「公家(国司)」「庶民(職人)」と大別でき、バラエティーに富んでいる事がお分かり頂けると思います。無数の如く存在した戦国武将たちは、上記の様々な身分階級から興り、「ある者は栄え、ある者は消え、そしてある者は戦国の世を動かした英傑になりました。これ程のバラエティーに豊かの出身者たちが躍動した時代は、前にも後にも、この戦国時代のみであります。強いて言うならば、様々な出身者が活躍するという点で類似しているのは、19世紀中盤の江戸幕末動乱期もありますが、それでも戦国時代ほどの華やかさは無いように思います。
 戦国時代とは、様々な階級(経歴)を持つ人物たちが戦国武将となり、世の中を彩ったという身分制度方面から見ても実に面白いものがあります。そこで今記事では、『有名戦国武将たちの出自について』と銘打って、一部ではありますが、紹介させて頂きたいと思います。先ずは『守護大名編』でございます。

「守護大名」を出自とする戦国武将(東日本編)

 本来、『守護』というのは、国単位で軍事および警察権を保有した身分(職制)です。本格的に守護が歴史の表舞台に出で来るのは、鎌倉幕府の創設者・源頼朝が、1185年11月、当時対立していた弟・源義経と叔父・源行家を追捕を表面上の目的(真の目的は、当時誕生したばかりの武士政権強化のため)として、御家人(頼朝の家臣団)たちを、当時武士政権の力があまり及んでいない畿内・山陰山陽・南海・西海(九州)の諸国に守護・地頭を派遣・任命する許可(勅許)を、当時の朝廷の最高権力者・後白河法皇に半ば強引に迫り、同年12月に諸国に守護・地頭を設置する事が朝廷から許可を得た時(文治の勅許)からであります。この日本諸国に守護・地頭が派遣・任命された事によって、約700年にも及ぶ武家政権が日本を統治する事になります。(拠って、近年の研究では、武家政権の始発点である鎌倉幕府の創設年は、守護・地頭を諸国に配した1185年説もあります
 「守護」という身分制は、室町幕府にも継承されましたが、鎌倉期に有していた軍事・警察権にプラスして、裁判権や統治国の税の徴収権なども室町幕府からより強い支配権を与えられたので、室町幕府体制下の守護という役目は『守護大名』と変化してゆきました。

 

 多くの守護大名は、当初は強い権力によって諸国を支配しており、室町期中頃には、「室町幕府は守護大名の連立政権」とも言われたくらいでしたが、1467年の応仁の乱から、守護大名同士の紛争(例:山名氏と細川氏)が頻発するようになり、各地の大名の間に強弱が発生し、戦国時代の幕開けとなったと言われる1493年の明応の政変で、権威を更に落とした守護大名(畠山氏)などが権威を失墜させ、下克上によって守護代や国人によって国の支配権が奪われてしまいました。無論、日本全国の守護大名が没落したのではなく、下克上の風潮(戦国時代)の中で、守護大名から戦国大名に上手く変貌していった家もあります。
 戦国期の中で、守護大名から戦国大名に変化していった主な大名家としては、甲信地方では武田信玄を輩出した『甲斐武田氏』、東海地方では今川義元の『今川氏』、中国地方では大内義興・義隆の『大内氏』、九州地方では、大友義鎮(宗麟)の『大友氏』や島津義久・義弘兄弟の『薩摩島津氏』などがありますが、他にも以下の通りに挙げられます。

 

1.東北地方
 『斯波氏(陸奥国、現:岩手県)』:斯波氏事体は戦国期には弱体化していましたが、その庶流として、後に羽州探題として、出羽国(現:山形県)一帯に勢力を持つ最上氏がおり、戦国期には最上義光(よしあき)という傑物が登場し、最上氏最大勢力を築いています。

 

 『伊達氏(同上、現:宮城県・福島県)』:ご存知、伊達政宗を輩出した伊達家ですが、彼の曾祖父にあたる伊達稙宗(たねむね)が、陸奥守護に任命されています。そして、稙宗の曾孫に英雄・政宗が登場、「独眼竜」という異名で、戦国の世を大大名として生き抜きました。

 

2.関東地方
 『佐竹氏(常陸国、現:茨城県)』:源頼朝と同じく、源氏である佐竹氏は、古くから常陸国(現:茨城県)に拠点を置く名族でした。戦国期には、佐竹義昭・義重父子が登場しましたが、特に義重は「鬼佐竹」「坂東太郎」という異名をとる程の智勇兼備の名将であり、戦国大名・佐竹氏の勢力拡大に辣腕を振るいました。義重の子・義宣の代には、豊臣政権の有力大名として、常陸国を中心に54万石を有しました。

 

 『宇都宮氏(下野国、現:栃木県)』:鎌倉時代から北関東の名族として誉れ高い宇都宮氏は、戦国初期に名将・宇都宮成綱が登場し、北関東一円に勢力を拡大しました。その後、宇都宮氏は衰退しますが、豊臣政権では下野18万石を維持しました。(後に改易され、名族・宇都宮氏は滅亡します)

 

 他に、下野国・常陸国を拠点とした小山氏や結城氏がいます。後に結城氏には徳川家康の次男・秀康が豊臣秀吉の斡旋により養子に入っていた時期もありました。

 

3.甲信地方
 『甲斐武田氏(甲斐国、現:山梨県)』:守護大名から戦国大名に上手く転身した好例と言うべき甲斐源氏の流れを汲む名門・甲斐武田氏は、1416年(室町初期)、関東で起こった内乱・上杉禅秀の乱が原因により大きく衰退、本拠である甲斐国も内乱状態になりますが、戦国期初めに、猛将・武田信虎(信玄の父)が登場し、甲斐国を統一、信濃国(現:長野県)に侵略を開始します。信虎はのちに、嫡男・信玄(当時は晴信)のクーデターによって大名の座を追われますが、名将・信玄の代には、着実に勢力を拡大し、本拠地・甲斐国をはじめ最盛期には、信濃国・西上野(現:群馬県西部)などを含める5ヶ国を統治する戦国覇者の1人になりました。

 

 他に南信濃国(現:長野県松本地方)を本拠とした小笠原氏がいますが、武田信玄の猛攻により、戦国大名・信濃小笠原氏は滅亡しました。

 

4.東海地方
 『今川氏(駿河国、現:静岡県東部)』:足利将軍家(室町幕府)の一族である名門中の名門である今川氏も、甲斐武田氏と同じく、見事に守護大名から戦国大名に脱皮した家柄になります。戦国期には、器量人である今川氏親が登場し、東国最古の分国法である「今川仮名目録」を制定し、領国経営を安定させました。氏親の子である「東海一の弓取り」として名高い今川義元の代になると、今川氏は駿河国・遠江国(現:静岡県西部)・三河国(現:愛知県東部)の3国を支配し、今川氏の最盛期を築き上げました。義元は、有名な桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまう敵役としても有名でありますが、先述の3国を支配するほどの器量を兼ねた大人物でした。
 桶狭間の戦いの後、今川氏真の代になりますが、今川家は衰退の一途を辿り、後年、徳川家康と武田信玄に攻められて、戦国大名としての今川氏は滅亡しますが、氏真は生き残り、徳川幕府政権下の高家として名を遺しました。

 

 他に、『尾張斯波氏(尾張国、現:愛知県西部)』、美濃国(現:岐阜県)を本拠とする『土岐氏』がいましたが、尾張斯波氏は、支配下にあった織田氏に滅亡され、土岐氏は、斎藤道三(利政)の下克上によって美濃国主の座を追われ、滅亡しています。

「守護大名」を出自とする戦国武将(西日本編)

5.近畿地方
 『六角氏(南近江国、現:滋賀県南部)』:六角氏は、近江源氏の血流を汲み、室町幕府の創始者・足利尊氏の盟友であった「バサラ大名」佐々木道誉が出た佐々木氏の一族であります。内乱の中心地というべき京周辺を本拠としていたために、様々な内乱に巻き込まれ勢力は衰退しましたが、戦国期には六角定頼が登場し、勢力を復権し、織田信長に先駆けて商業政策・楽市楽座を行うなどの業績を残しました。定頼の子・義賢(承禎、じょうてい)の代になると、勢力を伸張していた織田信長の圧迫を受け敗退。戦国大名としての六角氏は滅亡しました。

 

 他に赤松氏(播磨国、現:兵庫県南部)・山名氏(因幡国 現:鳥取県東部)といった室町幕府政権下の双璧を成した守護大名の2氏でしたが、戦国期には大きく勢力を後退させ、恰好な下克上の標的になる程の衰弱ぶりでした。

 

6.中国・四国地方
 『大内氏(周防国と長門国、現:山口県)』:中国地方の名族・大内氏は、室町期以来、代々周防長門を本拠とした強力な守護大名であり、地理的好条件により明貿易で更に力を蓄えて、戦国初期でも隆盛を誇り、大内義興は智勇兼備の名将が登場、安芸国と備後国(現:広島県)、豊前国(現:福岡県北九州市一帯および大分県北部)、石見国(現:島根県西部)にも及ぶ広大な勢力を構築し、戦国大名・大内氏の勢力を盤石なものとしました。義興の子・義隆の代にも、当初は大内氏の勢力は強いものがありましたが、出雲国(現:島根県東部)を本拠とする尼子氏攻略に失敗したのが原因となり、勢力に翳りが見え始め、義隆自身も政務を疎かにするようになり、更に衰退し始め、遂には下克上によって、支配下にあった周防守護代・陶隆房(のちの晴賢)のクーデター(大寧寺の変)によって、義隆は自刃しました。
 義隆に代わり、義隆の甥に当たり、九州の名族・大友氏の出身者・大友晴英が大内氏当主として迎えられ、大内義長と改名しましたが、飽くまでも陶晴賢の傀儡(名目上の当主)であり、実権は晴賢が握っていました。その晴賢も有名な厳島の戦い(日本三大奇襲の1つ)にて、安芸国の戦国大名・毛利元就に敗ぶれ自刃し、直後に、大内氏の本拠である周防長門も勢いに乗る毛利氏に侵攻され、義長も自刃。かつて西国の覇者として名を馳せた戦国大名・大内氏は滅亡しました。

 

 他に京極氏(出雲国)、細川氏(阿波国、現:徳島県)が存在しましたが、京極氏は一族で出雲守護代であった尼子氏に下克上によって転落し、四国の阿波国を本拠とする室町幕府の実力者・細川氏もまた内乱続きで勢力が衰え、遂には下克上によって、支配下であった国人・三好氏に支配権を奪われて衰退しました。

 

7.九州地方
 『大友氏(豊後国、現:大分県南部)』:戦国期に豊後国を中心に、北九州に広大な勢力を築いた大友氏は、元来、東国出身(相模国足柄上郡大友荘、現:神奈川県小田原市)の無名の御家人でしたが、源頼朝の信任が厚く(初代の大友能直が頼朝のご落胤説もあり)、当時源氏には馴染みが薄く、長らく平氏の基盤であった九州(鎮西)、即ち豊前豊後・筑後国(現:福岡県南部)の守護職および鎮西奉行として統治を委任されるほどの抜擢を受けました。ここから九州の名族・大友氏の隆盛が始まるのですが、因みに大友氏が頼朝に豊後守護など任命された鎌倉期には、同じく無名に近かった御家人・『島津氏』(詳細は後述)と『少弐(しょうに)氏』も頼朝の信任厚く、九州の守護職として抜擢されました。よって『大友氏』・『島津氏』・『少弐氏』の3氏を『九州三人衆』と呼ばれています。
 戦国期になると、大友氏は義鑑(よしあき、大友氏20代目)が戦国大名として成長し、後に義鑑嫡男・義鎮が、父・義鑑と異母弟・塩市丸との諍い(二階崩れの変)を制し、大友氏21代目当主となりました。この義鎮こそ、戦国大名・大友氏の最大勢力を築き上げ、キリシタン大名としても有名な「大友宗麟(そうりん)」であります。
 壮年期の宗麟は、有力家臣(立花道雪や高橋紹運など)にも恵まれ、果敢に近隣諸国を切り従え、中国の名族・大内氏(後に毛利氏)などとも対等に渡り合うほどでした。しかし、晩年期になると、嫡男・義統(よしむね、のちに吉統)との確執による家臣の内部分裂、近隣の国人勢力(龍造寺氏など)の台頭、そして島津氏との合戦による大敗(耳川の戦い)に悩まされ、滅亡寸前まで追い詰められるほど自勢力も大きく後退させましたが、当時の天下人・豊臣秀吉に臣従し、豊臣政権下の名族大名として命運を辛うじて繋ぎました。
 宗麟が没し、義統が大友氏当主となりましたが、父・宗麟ほど英明な人物ではなく、朝鮮出兵の折、偽情報を信じて(結果的には)敵前逃亡をしてしまい、秀吉の怒りを買い、大友氏は改易に処され、義統も幽閉の身になりました。天下人・秀吉が死去した(1598年)後、義統は謹慎の罪を赦され、豊臣氏に仕え始め、1600年天下分け目・関ケ原の戦いの際には、西軍(毛利・石田方)の後援を得て、旧領である豊後を取り戻すべく、九州で動き始めましたが、東軍(徳川家康)方、豊前で隠居していた名将・黒田如水(官兵衛)と細川氏の連合軍に大敗北(石垣原の戦い)し、東軍に降参。助命はされましたが、今度は次の天下人・徳川家康によって幽閉生活を余儀なくされ、ここに戦国大名・大友氏は滅亡し、義統も1610年に死去しました。
 義統の子である義乗(よしのり)は、関ケ原の戦い以前より徳川氏に仕えており、家名を存続し、その子孫も鎌倉期以降の名族・大友氏の末裔として徳川幕府に高家旗本として仕え続けたので、大名としての大友氏は滅亡しましたが、名族・大友家として家名は遺りました。

 

 『島津氏(薩摩国、現:鹿児島県西部)』:江戸末期には最大雄藩・薩摩藩として明治維新の原動力ともなり、現在でも皇族と深い繋がりを持つ名族・島津氏もまた、上記の大友氏と同じく、鎌倉期に薩摩・大隅国(現:鹿児島東部)・日向国(現:宮崎県)の守護職として、長く南九州の地に根付いた名族の1つでした。
 現在でも名族中の名族である島津氏も、戦国期には、相次ぐ一族や有力国人との内乱により、守護大名としての求心力を失い、弱体化の一途を辿っていましたが、分家筋当たる伊作(いざく)島津氏当主の忠良(日新斎)・貴久父子は、熾烈な一族紛争を制し、戦国大名・島津氏として名乗りを上げます。
 貴久の代に、薩摩に勢力基盤を構築し、彼の傑物した子たち、即ち義久(龍伯)・義弘(惟新)・歳久・家久の有名な「島津四兄弟」の代になると、島津氏の勢力は急成長し、日向国、肥後国(現:熊本県)と勢力を拡大させ、1578年には当時九州最大勢力であった大友氏を日向・耳川(現:宮崎県木城町)にて大勝、続く1581年には九州北西部で強大な勢力を誇っていた肥前国(現:佐賀県および長崎県)の戦国大名・龍造寺氏を沖田畷の戦い(現:長崎県島原半島)でも大勝を収め、九州最大勢力の戦国大名まで昇り詰め、九州統一も目前になりました。
 しかし、1587年、大友宗麟が当時の天下人・豊臣秀吉に臣従し、島津討伐を懇願。秀吉はその意を受け入れ、多くの名将、20万を超える大軍を従えて「島津攻め」が行われ、精強を誇るさすがの島津氏も天下人の大軍には敵わず、島津義久・義弘兄弟は秀吉に降伏し、長男・義久には薩摩、次男・義弘には大隅の領国が安堵されましたが、三男・歳久は、1592年に家臣が豊臣氏起こした反乱(梅北一揆)の責任を取らされ自刃し、四男・家久は島津攻め終結直後に急死しています。
 豊臣政権下でも大名として生き残った島津氏の勇猛ぶりは健在であり、特に次男である島津義弘は「鬼島津」と言われるほどの最強の名将でした(筆者力説)。義弘を大将した島津軍は、豊臣秀吉に従って朝鮮に出兵の折りには(先述の大友氏とは違い)、果敢に戦い、在地でも「石曼子(シーマンズ)」と畏怖されました。そして、秀吉死去の2年後に起きた関ケ原の戦いでは、義弘は1500の軍勢を率い、(不本意ながらも)西軍に属し参戦しましたが、西軍敗北が決定となるや、小勢にも関わらず、大胆にも敵方である徳川家康が率いる東軍戦前へ突撃し、多くの犠牲を払いながらも前代未聞の『前進退却(島津の退き口、捨て奸り戦法)』という離れ業を成し遂げ、義弘は無事に本国・薩摩に帰国。次の天下人たる家康の脳裏に「島津恐るべし」という鮮烈なイメージを植え付けました。
 関ケ原の戦後、島津氏は九州の東軍勢力(黒田如水など軍勢)と一触即発の危機に陥りますが、当時既に隠居の身であった龍伯(義久)が巧みな硬軟織り交ぜた軍備外交を家康とやってのけ、遂には勝者である家康が折れる形で、島津氏の本領を安堵し、島津氏は江戸幕府政権(幕藩体制)下でも九州の最大大名として、生き残ります。余談ながら上記の徳川氏との軍備外交の折り、徳川側の外交窓口となったのは、今年(2017年)のNHK大河ドラマの準主役となっている俳優・菅田将暉さん演じる「井伊直政(万千代)」であります。
 江戸幕府政権下でも名門大藩として生き残り、遂には明治維新といった日本史を動かす大きな原動力となったのは、守護大名出身者の戦国大名では薩摩島津氏のみでございます。やはり「恐るべし島津」という一言に尽きると思います。

 

 他にも九州には、先に少し触れさせて頂きました「九州三人衆」の1つである『少弐氏(筑前国、現:福岡県北部)』が守護大名として存在しました。かつての「元寇」では元王朝が派遣した遠征軍と死闘を繰り広げた名族・少弐氏でしたが、戦国期の折りには、やはり権力を失い、周防長門の戦国大名・大内氏に攻め滅ぼされてしまいました。

 

 以上、えらく長文になってしまい恐縮ではございますが、『有名戦国武将たちの出自・守護大名編』を終わりとさせて頂きたいと思います。今後も今記事の続編という形で、その他の出自(守護代や国人)の戦国武将たちも追って紹介させて頂きたいと思いますので、ご興味のある方は引き続きご一読して頂ければ幸いでございます。